仮に喜びの強さ、重さを量で示せるとして。
ホームレスのおじさんがやっとコンビニ弁当にありつけたときの喜びの量と、
アフリカで飢えに苦しむ子どもが運良く食べられるものを手にできたときの喜びの量。
ふたりがそれぞれ感じた喜びの量は同じぐらいなんだと思う。
「幸福は相対的なもの」だってだれかがいってた。
そりゃアフリカのそうした子供がコンビニ弁当なんてものにお目にかかれたら、かなりうれしいに違いない。
ホームレスのコンビニ弁当に対する気持ちと比較すれば、たしかに幸福は相対的なのかもしれない。
でももう少し正確に言うなら「個人の幸福は、かれが属する集団が決めた価値観に基づく」んじゃないのかな。
この「集団」は広いのから狭いのまでいろいろあるけど、だからたとえば「うつは甘え」って見方は「つらさの基準」が違うことにも関係あると思うんだ。
よくきく「昔の子どもはそんなことでヘコたれやしなかったぞ!」ってお叱り。
あれがずれてるなーって思うのは「現代の子ども」と「昔の子ども」が違う集団で、幸せの基準も違うから。
「甘やかされて育った甘え」っていうのも、全体的に環境がよくなってるから「文化的最低限」みたいなの基準が高まってて、苦しみも高度(あるいは低レベル)になった。
これで説明できない? できてないかなあ……。
きょうテレビをみていて、おもったこと。
「うつであることを保障する環境」と「うつになりやすい環境」と「うつになっても文句を言われない環境」ってやっぱ似てしまうよ。
人それぞれって言葉がのさばりすぎるのは避けたいけれど、かといってこの三つがみんないっしょくたにされてじゃあ全部いらねーよ!そうだ気持ちの問題だー!ってなるのはもっとやだ。
でも、テレビから聞こえるぐらいの知識で価値観がそれほどゆるがせるとも思えない。
目に見えない苦しみにもだえつづける人々を目に見える形でささえるにはどうすればいいか……って考えたけど結局わかんなかった。
とりあえず、子どもはもっと遊んだほうがいいと思います。
ケータイやネットがあたりまえだとしても、知識だけためこむ仕組みは、たぶんよくない。
「統合失調症」とか「境界性人格障害」とかって、耳で聞いたらなんかおもくてつよそうだし。
キャラ濃いし。個性的で一目おかれそうだし。てか個性ってなきゃダメらしいし。でも受け入れられたいし。
そうやってなんとなく気に入ってそんな気がするって言ってるうちに、
本当にそうなっちゃうことは、たぶんあるだろうから。そういう自己暗示が。
なんだかよくわからない不安に病名をつけたらほんとにその病気になっちゃうことは、たぶんあるから。
その結果、精神疾患が『物語』になってしまったら、抜け出すのはかなりつらいんだ。
あと、こわいことがある。
教室に「心のケア」なんて言葉を文字通りにもってきちゃったら、先生たちがみんなフロイト先生のメガネかけなきゃ子どもが見えなくなっちゃったりしないかっていう、たぶん杞憂。
むずかしいことはわかんないけど、子どもの気持ちはわかるって先生はすごく大事。
そういう先生が周りにうながされてメガネメガネってあわてちゃって、もともと掛けてたメガネが見えなくなっちゃったり、裸眼でもみれたのにかえって視力落としちゃったりするのが、こわい。
……思い入れがつよすぎて、うまくまとまらなかった。
ごめんなさい。
価値関数の参照点依存性ってやつを思い出した