そうだよなー。わかるんだよ。とか思いながら読んだ。
こんなことを人に公開して(しかもレスポンスを頂けて)書けるのは増田くらいなので、少し恥ずかしいけど書きたい事を全部書こうと思う。
教科書的デザインである事は普遍の美しさや安定という価値観に近づくと思い、それを追う様になった。
偏差値を高めるという表現がしっくりとくる。
自分にとって、デザインが手段か目的かということが大きくデザインの役割を決めている気がする。
作っていく事を評価されたいのか、作ったモノを評価されたいのか。
ちょっと評価されたいという意識が強すぎるのかもしれない。
教育の場ではもっと自由にやればいいんだよ、なんてよく言われるけど基礎ができた上での話だってわかってる。
知り合いで教科書的を突き詰めて、その無駄すらも排除したようなミニマルなデザインをしている人がいる。
普遍的な美しさを持ちながらも、時にはふつうと言われかねない高尚なデザインは、
自分の理想に近くて、まあそれを目指す人は沢山いて、その人にも
「君は綺麗なものは作れるけど埋もれかねない」
と突き刺さる言葉を頂いた。
対して、普遍的な価値観など考えず恣意性丸出しのデザインを貫く知り合いもいて、
そちらにも憧れるのはモノ作りをするものとしては当然だと思う。
恣意性を出すのは難しい、そして恥ずかしい。
「デザインの理由・・・作りたかったから」
「なんてバカだ」で終わらずに、「なんてかっこいいんだ」ってところまで思ってもらえないと成立しない。
と、ここまで書いて最初にも、前回のエントリにも書いたけど当然すぎ。わかってるよ。
この文章すらもつまらない自分の一部だ。だから書くのが恥ずかしいと思うんだろう。
ここで唐突に麻婆炒飯について語りだすくらいの、
そしてその話がベストセラーになるくらいの恣意性が必要なんだろう。
精進いたします。
デザインの勉強をしている。 いいデザインをする為にはいいデザインを知らなくては。 そうやって身の回りのものに少しずつうんちくが溜まっていく。 しかし気がつくと、当然周り...
>>しかし気がつくと、当然周りのいいデザインを追うモノ達と同じ持ち物、容姿になる訳で。<< ここが理解出来ない。 「良いデザイン」の「なにが・なぜ・どう良いのか」さえ...
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友達のデザイナーに有名ななんとかコンペ入賞クラスの優秀なデザイナーがいて、彼のデザインはどれも教科書的。 理論立ててデザインがされているのがよくわかるし、説明してくれる...