2009-07-30

http://anond.hatelabo.jp/20090729215732

自分がされて嫌なことは他人にもしてはいけない」は、あくまで一定の場合に不作為を求めるもので、「されて嬉しいことは人にもしなさい」という作為を求めるものとは別の規範なのではないか。

だとすれば、「されて嫌なことは他人にもしない」を徹底したところで、セクハラパワハラにつながることはないはずだ。

また、「されて嫌でないことは全て他人にもしてよい」と言っているわけではないことにも注意したい。

例えば、親からこういわれた子どもが、「されて嫌なことじゃないから、学校帰りに○○ちゃんに(校則で禁止されている)ファーストフード店でおごってあげてもいいよね」と言ったところで、屁理屈でしかないのは自明だ。

「されて嫌か否か」とはまったく別の次元規制が働くことを否定するものではないからだ。

もし問題が起こるとすれば、「私は喧嘩の時に仲裁されるのが嫌いだから、××君の喧嘩を止めなかった」と言い出す可能性があり得るが、その辺りは例外として別の規範によって解決できるように思う。

記事への反応 -
  • 自分が嫌なことが実は相手の求めていたことだったり、 自分が良かれと思ったことが相手にとって物凄い辛いことだったりするかもしれないからです。 この言葉によって、多くのセクハ...

    • 「自分がされて嫌なことは他人にもしてはいけない」は、あくまで一定の場合に不作為を求めるもので、「されて嬉しいことは人にもしなさい」という作為を求めるものとは別の規範な...

    • 他人には何もするなと教えるべき。

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