今の「エンドレスエイト」を肯定している人って、その大部分が「クオリティが高いから=出来が良いから」なんじゃないですかねえ、と思うんですけど。まあ僕自身がまさにそういう理由で肯定している一人ですが。
「出来が良い」。勿論これに出来が良いと思うかどうかは、人によって異なるでしょうし、出来が良いと思っていても肯定していない人はいらっしゃるでしょうが。その「出来」は何に対して述べられたものかといえば、この「エンドレスエイト」は基本的にループもの、話の筋自体は殆ど同じ(これまでの放送5回でいうと、一度目のエンドレスエイト放送周、ループに気付かなかった時を除いて)ですので、ここでは当然「お話・物語」に対する評価は後退して、主に演出とか作画面での話になるでしょう。
その事実をどうやって「擁護」するのか?
現在は単純に「クオリティが高い」「出来が良い」と肯定できる。ここ2回は素晴らしい出来だった。こんな内容だったらいくでも肯定できる。これだったら、ずっとエンドレスエイトやっててもらっても構わない。でもずっとこのクオリティではないだろう? 「エンドレスエイト」が何回続くのか分からないけれど、この先微妙な回があったらどうするのだ。どうやって擁護するのだ。……現に、個人的には微妙な回は既にあった。あれを僕は擁護することができない。演出面で、肯定できるほどに見たいところはなく、それでいて物語は他の回と殆ど同じ―――他の回で代替可能・補完可能である。ならば、その存在をどうやったら肯定できる・擁護できる?
アニメ版「エンドレスエイト」の「お話・物語」は喩えるならば、連続写真みたいなものでしょう。エンドレスエイトが何回あるのか現時点では分からないけれど―――たとえば適当に、8回だと仮定してみましょう。これは一つのちょっとした動作を写した8枚の連続写真。それぞれちょっとづつ異なっていて、順番に並べると一つの動作がなめらかに再現されます。その写真から1枚、2枚ほど抜いたらどうだろう。8枚の写真は6枚の写真になった。でも、そこに何か問題があるだろうか? 全ての写真が揃わなくても、問題が無い差異なんじゃないだろうか? 腰に当てた手を肩に持ってくる動作を8枚の連続写真に収めたとして、それは8枚なければそういう動作だと分からないものではない。最初の写真と最後の写真、後はせいぜい中間の写真があれば、その動作が何なのかは把握できるでしょう。
上のはあくまでも喩えです。実際は(エンドレスエイトは)もっと恐ろしい。ホントは「15000枚以上」の連続写真なのに、その中から現在では5枚しか見れていないのに、何の問題もなくなっている。描かれていない15000回以上は、数字の上では在るし、長門にとっては在るのだけれど、視聴者にとっては無いも同然―――あるいは、今までのどれか(放送第一回のエンドレスエイト、放送第二回のエンドレスエイト、放送第三回のエンドレスエイト……)と同然のものになっている。描かれていない回が、描かれた回で代替可能・補完可能である。そしてそれと同じ様に、描かれた回自体が、他の描かれた回で代替可能・補完可能でもある。
その事実をどうやって擁護できるのか。つまり「クオリティの低い=出来の悪い」回は、普通のアニメだったら、たとえそれでもお話としては交換不可能、どんな出来だろうと絶対の存在価値がある、その回は唯一のものであるのだけれど。話が代替可能・交換可能なエンドレスエイトにおいては、しかも(長門以外は)誰も覚えていないループ―――つまり「あったけどなかったこと・なかったけどあったこと」になるこの設定においては、どうやってその唯一性を擁護するのか? 出来やクオリティ以外で、ただ放送された・描かれたという事実以外で、その存在自体をどうやったら全肯定できるのか? やーホントは僕も全肯定したいんですよー今までだと特に3回目のとか。だから誰かズバッと擁護してくれませんか。