お昼の一万円コースを頼んだ。このご時世でもさすが、予約困難な店のことはあり、満席。二回転している席もあった。
女将はお約束の小太りの女狐といった風情が、決して上品ではないが、客商売の長さで培った接客術はなかなかのもの。転んでもタダでは起きぬという図々しさが見え隠れする客を値踏みする目は、高級飲食店であればあるほど如実だ。彼らが頭を下げる人種ではない自分は、いつもながらその慇懃無礼さに感心してしまう。そうでなければやっていけぬとはいえ水商売とは因果なものだと意地悪く思う。おそらく女将も、かつては花もはじらう乙女であったかもしれないが。
料理は仔細に手の込んだものだった。日本料理はやはり水が肝となるのがよくわかる京都らしい薄味。絶妙な火の通り具合の貝類、包丁目も美しい鮎魚女の骨切りのお椀、彫刻のような筍。全9品が、京焼きの器によく映える。
料理は、まあ一万でも不満はない。
ただ残念なことに着物姿のお運びの女性の所作が全く美しくない。お敷きに器をおく動作ひとつとっても、音を立てる。下げるときも音を立てて器を重ねる。
一礼して下げるのは良いがそこには慇懃無礼さもなく、無愛想。気持ちよく食事が出来るというには及第点も与えられない。
たった今店を後にした、おそらく一見の観光客と思われる人々を俎上に、おもしろおかしく語って聞かせる。
「一番最初から居て、ようやっと帰りはった。」
「次々出てくるけど、食べるスピードが追いつかなくて横に並べてあった。」
などと、困ったようにわらう。それを聞く常連客も「美味しいもんは、出来たてのうちに食べたいから、この店に来たら無言になって食べてしまうわ。」などと返す。また、その場にいない常連客の噂話もする。
これはカウンターでの会話だ。
一番奥にお座敷があり、カウンターとの間にはテーブル席があるが、そのテーブル席の通路を隔ててお手洗いのドアがある。
つまり、そのトイレのドアの前の席に案内された客は、他の客がトイレのドアを開け閉めするすぐ旁らで大層な会席料理を食すのだ。
もしも、まっとうな良心のある店主ならば、儲けではなく、そのスペースには花器などを置き季節の花を生けるだろう。
利潤を追求することを責めているのではないが、高い金を出して味わいたいのは料理だけではないはずだ。その店の気配り、たたずまい、それらを堪能したくて、たまの会席だからと張り込んだりするのだ。
自分の身の丈に合った生活というものは大切なことだが、たまの贅沢を楽しむにも庶民は庶民らしく厠の横で飯を食えという店の傲りをまざまざと見せつけられたようで気分が悪かった。
自分は食後、お手洗いに立ってはじめて、その席で食事している人々を見て驚いたのだが、トイレのドアを開けるのが気まずかった。
全てがそうだとは勿論言わないが、京都人が底意地悪いのはやっぱり間違いないなと思う。