2009-02-07

「運」は大抵の場合、ごくごくシンプルに「説明」可能だ

「私男運が悪いんだよねー」という女性は、大抵の場合単に《オトコを見る目がない》。

「どうも人生ツイてないんすよー」という男性は、大抵の場合《総体で見て利用者側が搾取されるシステム》のギャンブルにハマってたりする。

「ああツイてない!」と悲観する受験生は大抵の場合単に《勉強不足》で、

「最後の望み」をかけて《宝くじ》を買う人は悲嘆にくれることになる。

そんなの当たり前のことなのに、どうしてそんなことで悲しめるのかよく分からない。そんなことが世の中には沢山あるみたいだ。

……けど、それは視点が違うからなんだろう。ちょっとした「気づき」を失うだけで、私たちは簡単にそんな誤謬に陥るのだろう。

http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/193を読んで思ったけど、

「運がよいアポロ」とは、言い換えれば「ボロがあり、余剰のあるアポロ」だった。「事故を起こした(ボロ)けど生還できた(余剰)」というだけのことだ。

「運の悪いシャトル」は「それなりの性能で、余剰がない」システムだった。「事故を起こした(それなり)し生還出来なかった(余剰がない)」ということ。

別に何の不思議もない。自分の作った物に対して謙虚で「余剰」の価値が分かってる人の作ったシステムはタフで、自分の作った物に対して自信過剰な人は「余剰」の価値に気づけないから脆弱システム設計をしがちだ。それは「運」とかいう神秘ではなく、ただの現実だ。


対人関係で言えば、自己謙虚で余裕のある人の周りには能力のある人が集まり、逆からは離れていく。「腕が良いのに病棟が荒れる/腕が悪くても病棟が荒れない」という現実もそこから起こる。自分が失敗をする前提でシステム設計する人は、自然と「周囲が余剰となってフォローするシステム」を築き上げることを知ってるから、ミスが起きても破綻させなくて済む。そこには何の神秘もない。ただ現実があるだけだ。

自分を過信するせいで、人は安易に「神秘」を信じてしまう。「運」とは「人間にできる『あらゆる努力』を払った上でなお届かない何か」だけにつける名称であるべきだ。人間にできる『あらゆる努力』の範囲は、思っているより相当広い。

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