市場に委ねればすべてが良くなるというものではない?
市場は鏡であって、人や組織や行政が行った事を、正直に出力しているだけである。望んだ結果がでなかったからといって、市場が悪いというのはわがままでしかないし、市場に委ねていればばら色の未来が実現するというのも、根拠が無い。鏡をいくら見ても、現実が写るだけでしかない。現実を変えるのは人々の行動であり、人々の行動を引き出す為に、邪魔をしている規制や許認可を外していく必要がある。頑是無い子供でもあるまいし。
市場が望んだ通りの結果を出すように規制や許認可を強化した場合、それでも望みの結果がでなかったら、誰が責任を取るのであろうか。規制や許認可をやった人間は、善意でやったのだから無罪であると主張するつもりであろうか。ならば、私利私欲の為に規制や許認可を使い、天下り先を作ってお手盛りの退職金を貰う為に渡りを繰り返すのと、変わらない。仮に、望んだ通りの結果が出たとしても、常に望んだ通りの結果を出し続けることができるであろうか。規制や許認可は、それによって行動を制限されると同時に、新参者を排除できる参入障壁ともなる。参入障壁のある市場では、市場参加者の私利私欲が優先され、一部の人々の為に国家や社会が利用されるという事になる。
自由放任で規制や許認可の基準がクリアーで平等な市場というのは、責任を市場の参加者全てが取るという事である。能動的に参加した人も居れば、物価の変動によって影響を受ける人も居る。しかし、誰が責任を取るのかという点で、市場主義は、民主主義そのものなのである。
能動的に市場に参加した人達が代議員となって、勝手に物価を動かしていたというのであれば、代議員の資格を許認可で縛り、行動を規制するよりも、国民全員が参加できるようにするべきである。
愚かな事が起きたとしても、それは、愚かな行動が起きるような間抜けな事をやらかした人が居るというだけである。誰かや国家に責任を押し付けるようなモノではないし、他人の金である税金を使って責任を取るふりをしつつ、私利私欲の為の権限を増やそうというのも許されない事である。
選挙で思い通りの結果が出ないから、有権者を許認可で絞り、指示された候補者の名前以外の文字を書いてはならないと規制すれば、投票率・得票率100%の思い通りの選挙が実現できるが、それに意味があるのであろうか。
財政出動で景気が回復しないのは、小渕内閣の時に実験済みである。しかし、財政出動で道路工事やトンネルや橋や箱モノや補助金をばら撒く事で、田舎の選挙区の票が買えるならば、消費税の大部分を負担する都市・一区生活者を切り捨てるというのが今の政権の立場のようである。
文体でぴんときた。くえすたんの無断(つうか出典を明記しない)転載は感心せんな http://www11.ocn.ne.jp/~ques/diary/diary.html 保守反動の排外主義者だが考え抜かれた良い文章を書く人だ、もっ...