読んでいて、この話を思い出した。微妙に論点が違うけど。
うまく要約できないから、そのまま転載する。
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http://column.chbox.jp/home/kiri/archives/blog/main/2006/08/07_061846.html
話題性と結果・評価はあまり連動しない。むしろ、結果や評価が芳しくなくても芳しくなかったなりに、自己の周辺で展開される話題についていければ効果があることになるのだ。作品やイベントが良いのか悪いのかは然程本質を突かない。亀田さんの世界戦の判定がおかしかろうと、『日本沈没』がくだらなかろうと、話題を志向してコンテンツを消費する人たちにとってはそれについてあーだこーだ語れればそれでいいのである。
結果として、作品として楽しめたかどうかよりも、自分の周囲で話題になっていたかどうかが、コンテンツ消費の基準となる。自分の周辺で『涼宮ハルヒの憂鬱』を語っているのが職場で浮いてるキモいオタクだけのようだという話になると、自らそこに関わっていく動機がそもそもなくなる。良質な作品が話題性のあるコンテンツではないのだ。この場合、そこに介在する酷評――例えば『ゲド戦記』は超絶につまらない、など――さえも、そのコンテンツが話題の俎上にある価値を示す。
課題は、これらの話題性を伴うコンテンツが、質的評価を伴わなかったが故に、長く語り継がれる作品として世間に定着しなくなることにある。