今頃どこかでみのもんた達が暴れまわってる事だろうけど、これって単なる嗜好の問題じゃないと思うよ。
キャラクタービジネスってのは「キャラクターは商品ではなく実体を持った一個の存在だ」という神聖な嘘を前提に成立している。そこではある作品が気に入らなかったとしても、代わりに他の作品を選ぶと言うことは原則的に言ってできない。ナギは『かんなぎ』の外にはいないから。にも拘らず、そこでは作者の胸三寸で全てがいとも簡単に書き換えられてしまう。消費者はそれに介入することはおろか、影響を与えることすらできない。完全に無力な存在になる。今回の騒動の根底にあったのはこういう事実への嘆きなんじゃないかな。
それは分かる。かんなぎじゃないが、他の漫画で似たような思いを味わった。例えば寡黙で女に興味がないようなキャラクターが、後日出てきたときに真逆になりナンパ師になっていたり、作中でどう考えてもこれはマズいだろ、というような行為をしているキャラが、作者が気に入っているからというだけで何の罰則も受けない等、そういうような事に対するモヤモヤ感と、今回の処女騒動は根本的にそう言う意味(一個体のキャラクターという幻想が、他のものでは代替できないそれが皆の間で共有されているにも関わらず、どうあがいても、作者によって簡単にどのような事もされてしまうという)では同じなのだろうと。いや、「書き換えられた」といっても、普通のファンから見れば、別に「作者の胸三寸で書き換えた」というようなものでなく、今までのキャラどおりだろうという場合も(かんなぎもそれっぽいが)あるわけで、一体どのラインから「書き換えられた」と判断するのか(作者としては大抵の場合一貫性があるつもりなのだから)という問題もあるけれども、それはさておいてもその「自分には何もできない、どうしようもなさ」は分かる。
しかし、だからといって
だから、今回の騒動を否定することはオタクそのものを否定するのと同じようなことだと思うよ。まあ「アニメには興味ないけどとりあえずオタクきめえw」みたいな連中はいいけど、みのもんたのほとんどはそうじゃないでしょ?
これは成り立たないと思う。というか、ここんところのつながりが正直よくわからない。別にその騒動を否定しても、オタクそのものを否定することにはならないだろう。それとこれとは別だ。
「自分にはキャラに対して何もどうしようもできないというどうしようもなさ」は、そもそも「キャラクターが商品でなく実体をもった一個の存在」であるならば余計に受け入れなければならないことだ。人は他人を自分の好きなように設定することはできない。
だから寧ろ、「キャラクターが商品でなく実体を持った一個の存在」としてみるならば余計にこのような反発が起きるのはおかしい。一個の存在としてみた場合、要は作者は神だ。神に対するどうしようもなさは理解はできるが、しかし、それは、飲み込まねばならないことなんだ。一個の存在として認めるならば。
そういった諦念を持っていない覚悟の足りないオタクは、もはやオタクではないともいえる。キャラクターを商品と見なした上でのクレーマーに成り下がった存在でしかない。一個の存在だと認めるならば余計に飲み込むべきところだった。ここで反発した奴は愛が足りなさ過ぎる。キャラを一個の存在だと見なしていないからこそ起きる。一個の存在だと思うならば仕方が無いのだと諦念するしか他ない。作者はその一個の存在であるキャラを生み出したという点においてだけ神であるから。
「自分にはキャラに対して何もどうしようもできないというどうしようもなさ」は、そもそも「キャラクターが商品でなく実体をもった一個の存在」であるならば余計に受け入れなけれ...