君が一人暮らししようかなと僕の目を覗き込んでいったとき、沸きあがってくる喜びと同時に不安につきあたったんだ。僕も来春から一人暮らしを予定している。このまま行けばお互いに一人暮らしを経ていずれ同棲か、もしくはその先の結婚という文字が見えてくるだろうということは当然のように二人の認識の中に横たわっている。どうなるかわからないなんてことはいくらでも言えるけれども、予感というのはそれはそれで厳然と存在しているのだから無視はできない。
まだ君にいってないことがある。街中で幼い子供を見るたびに無意識のうちに顔が緩んでしまうくらい子供が好きだけれど、同時に哀しみを抱くということ。妊婦さんを見かけるとわぁおめでたいなぁ、大変なんだろうなぁ席譲ろうと思うのと同時になんとも言えない羨望の気持ちが湧き上がってきて悲しくなること。君にはまだ伝えていない、この感情をどうやって伝えればいいかわからないから。
子供が出来にくい体質だとわかったのはそんなに前のことではない。ほかの治療をきっかけにして婦人科の門をたたくことになり、そこで発覚した。正直、思ってたよりもずっとショックだった。思ってたよりもずっと思い事実だった。薬を飲めば、治療をすれば、どうにかなるかもしれないとお医者さんは言った。わかりやすい言葉でショックの少ない言葉を選んで噛んで含めるように言ってくれた。まだ結婚してないし、若いし、こういうことはよくあることだし、実際に何もしなくても授かるということはあるから、だから結婚して子供がほしくなったときにまた検査をして、旦那さんと相談して、それからどうするか考えればいいと、お医者さんは言った。たぶんそうだろうと理性では思った。いざとなれば、養子もあるし。何度も何度も自分に向かっていった。出来にくいということが発覚する前から冗談交じりにそんなことをよく言っていた。そういう予感があったから。なんだかんだいって自分の体のことは自分はなんとなく察知しているのだ。そう痛感した。
君も子供は好きで、こないだすれ違ったときも目に入れてもきっと痛くないよって笑ってたからたぶん親ばかになるんだろうな、ということを思って笑った。はっきりとは言葉にしていないけれども会話の端々に未来のこと、将来のこと、仕事のこと、住む場所、家、死んだあとのこともずっと一緒にいることを前提で話が出る。その中にもちろん子供の話も出る。そのたびに言いよどむ。君は気づいているのかいないのか、自分の中ではっきりしないからなのかそれ以上は突っ込んでこないけれども、いつも心のどこかに引っかかっている。
もしかしたら、これが原因で別れるということもあるんだろうか。子供が出来にくいなら無理だと君は言うだろうか。言うかもしれない。いや、それは二の次かもしれない。それだけではないからいいんだよという気はするけれども、いくら二人の間の問題とはいえ、子供が出来ないことでさらされるプレッシャーというのに耐えろと僕はいえない。子供がどうとかはひとまず関係ないといわれて喜べるか。うれしいだろう。でも喜べるか?今後治療をすることがあったとしてそのときに君につらく当たったりしないか、周囲を恨んだりしないか。理屈ではわかっている。誰のせいでもない、たまたま運が悪かっただけでそういう体質で、何も自分が生むことにこだわらなくてもそれならそれで方法はある。そんなことはわかってるし、調べてもいる。だけど。だけど理屈じゃないんだ。
遺伝子ははっきり言ってどうでもいい。自分の遺伝子を残したいなんて思わないし、養子で全然かまわないと思っている。子供は子供だ。たぶん腹が立つこともあるだろうが、そういうことを含めてもできるものなら家族というものはほしい。お産怖いし、痛いって聞くし、死ぬかもしれないし、産科もなくなってるしとか考えると養子を取るという選択肢はそんなにネガティブな選択肢ではない。おそらくもし君が、僕が出来にくくてもそれでもかまわない結婚しようという人であるならば、養子という選択肢も積極的に考えるだろうと思う。だけどあらゆる養子が取れる条件を満たせるかどうかもわからないというだけではない何かが引っかかってる。自分の子供じゃなきゃだめって言うわけじゃないんだ、そういう単純な話ではないんだ。出来ないってことが、そういう事実が重くのしかかってくる。そして君がそれを受け入れてくれるかどうかもわからない。たとえ受け入れてくれたとしても自分が受け入れられるかどうかもわからない。
たぶん問題は君や、あるいは周囲や、お互いの親戚やなどではなくて、僕自身なのだろう。自分が自分の「できない」という事実を受け入れられるかどうかで世界の見方がまるで変わってしまうのだろう。出来ないかもしれないと聞かされたときから世界が変わったように。
幸せな光景を見るのはとても好きだし、そのまま幸せでいてほしいと願うのになぜか涙が出る。僕はそちら側に行きたいのに行けないかもしれない。ただスクリーンで見ている映画の中の出来事のようにつかむことは出来ない。そういう寂しさと悲しさ。配慮してほしいとは思わない。遠慮しろとも思わない。むしろもっといや、あるがままに幸せでいてほしいと思う。楽しそうでいてほしいと思う。僕は一人で悲しくなる。君は。なんていうだろう。