2008-02-07

何から書いていいかわからない。ただ、書かずにはいられない気持ちになっている。

最近の若い人、という言葉を自分が使うような年齢になったことを、まず嘆きたい。

次に、その若い人たちの、善悪の観念がよくわからないことを嘆きたい。これは、

理解できない自分を嘆く意味と、理解できないような考えと行動でつっぱしる若者たちを嘆く意味の両方。

最近の若い人たちは、みなとても仲良しだ。

仲良しという言葉が安っぽく聞こえるくらい、本当に仲良しだと思う。

ひとりが「こうだよね」といい始めると、みんなそうだといい始める。

誰かが目立ったことを始めると、とたんにウザイといいはじめ、みんなが同意する。

単に目立っているだけで誰のことも攻撃していないものを「目障りで迷惑」という主観的な理由で許せない。

そして、その目障りなものが存在できないように決まりをつくれと言う。

そうすることが正義なんだとも。

良質とか、品位という、得体の知れない言葉も大好きで、

では何が「良い」のか説明してほしいと問えば

「そんなこともわからないなんて、大人として恥ずかしい」と返される。

そんな形のない、得体のしれない基準で、がんじがらめにならなければ安心して暮らせないようだ。

わたしにはイジメの構図にしか見えないその理屈が、若い人たちの秩序の作り方らしい。

しかし、こいつら化け物(とあえて呼ばせていただく)の製造者は、

どうやらわたしと同世代の大人であるらしく、

だとすれば、わたしもその一端を担っているのかもしれず、人ごとのように見下してもいられないのだけれど。

若者よ、君らの理論を借りることを許してくれるのならば、

わたしはオマイらがウザイし、目障りだし、存在を許せない。

だが、わたしは大人だから許してやる。

どんなに間違っていても、存在していることを許してやる。

オマイらが発言することに、何一つ賛成できなくとも、発言すること自体は許してやる。

オマイらのように、排除しようなどとは決して言わない。

それは、オマイら未熟な若者を、それでも人間だと認めているからなんだよ。

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