確かに、考える力を鍛えることは必要。
でも大前提として、その考える力を下支えするだけの知識が必要であることを忘れている気がする。
記憶力って大事だと思うんだ。
システマチックに言うと、
(2)次にプロセス(処理)があって
(3)そしてアウトプット(出力)があって
ということになるわけで、そのインプットをすっ飛ばしてプロセスを追い求めても意味ないじゃん、と考えるわけ。
あまつさえ、短絡的にアウトカムだけを求めるのはおかしな話だよね。
しかし、基礎的な情報の蓄積がない子供にプロセスを求めても、それは無理という話。
本を読ませて、計算させて、漢字を書き取らせて、音読させて。
最初は学ぶことを強いて、強制して、詰め込んで。(=勉強)
いろんな情報を収集して、そしてそこから何を導き出すか。
それこそが「学問」じゃないのかな、と思うのです。
学問のためには必ず勉強(情報収集)という仮定を経ないと成立しないんじゃないか、と。
詰め込みといわれようがなんだろうが、その基礎的な内容、インプットの質と量が逆に様々なプロセスを呼び起こす場合もあるわけ。
そこを、プロセスありきのインプットで語ってしまうからおかしなことになる。
確かに、考える力は大事。
でも、そういう机上の空論を繰り返すエライ人たちは忘れてると思うの。
沢山の知識、前提、バックグラウンド、歴史、、、そういった背景が彼らにあって、それが今に息づいているということを。
九九や歴史や漢字や自然現象や、そういった雑多な知識から学んだ様々なことがあっての今の思考体系だということを。
『y=(??b±√b^2-4ac)/2a』
という因数分解の公式が直接役に立つことはほとんどないけど、そこに至る過程で思考方法を学び、それが肥やしとなって生きてくる。
「生かせるようになったときに生きてくるような情報を与えておく」
それが幼少教育なんじゃないかな。
だから、強制し過ぎない範囲で詰め込んであげるのは、必要なんじゃないか、って思う。
まだ上手く考えがまとまってないけど。
今の僕はそう思っている。
・・・そう思いません?
日経BPの記事へリンク張れよ これじゃお前の意見みたいだ