これが危ない、何が危ない、これは実は危険だ、などなどなどなど
そういう情報が溢れすぎて、そしてその情報の真偽がまた、「テレビで危険だといっているが本当は危険なんかじゃない」「こんな本があるがそれは嘘っぱちだ」「ネット上でこんな論が主流になってるがそれは間違い」などなどなどなど……
あれもこれもどれも全て危険な気がするし、そうでもない気がする。
全てを判別している暇なんかあるわけないし
判別できたとしても主に金銭的な問題や時間的な問題により、その危険を回避できるかもわからない。
例えば
中国産が危ないといわれるが実際俺が行くような普通のスーパーじゃ中国産なんてありふれまくりで
なるべく国産を買おうとしたって既製品でもあればたいてい含まれてる。ていうか国産は高い。
その上一見国産でも実は中国産なんてのもあったりするなんて言われちゃもうどうしていいか分からない。
そんな事がしょっちゅう起きていて、もう何をどうすればいいのかさっぱりわからない。
重要度の高低も分からない。どこまでならある程度気をぬいてもいいのかぬいちゃだめなのか
最早考えるだけで頭が痛い
間違いがあったにせよ情報が限られていた昔の方が、生き易かったのかもしれない。自由が無かった分一つの事に打ち込めたのかもしれない。選択肢があふれ、情報も溢れることはいい事だがその分一つの事に打ち込む以前の問題(どれを選ぶか)や、情報を信じて実行する以前の問題(真偽や選択)が出来た。限られていた時はそれがなかった。でもだから昔がよかったとかじゃない。今の方が確実によくはなっていると思う。しかしよくなったというのは単純にメリットだけを産むわけじゃないということだ。昔はやはり視野がせまい状態だったけれど、不幸中の幸い的な、ダメゆえに生まれたメリットがあった。それだけの話。ただ今俺が苦労してるというのも現実。更にもう一歩、いや一歩どころじゃないかもしれないが、先があるのだろう。その苦労すらなくなる先が。ただそれは今じゃない。
とにかく疲れた。面倒だ。
下手に何かを知ってしまうことで、選択に頭を悩ませたくないと、近頃情報をついシャットアウトしてしまう。聞きたくない。下手に知ってしまって、気にしたくはないのだ。知らないまま、無知のままでいたい。いっそ。そう思うようにすらなった。
とにかく疲れた。大体何の為に気を遣ってるのか?究極的には死なない為だ。食べ物も、健康も、仕事も、金も、どの心配も。
ならもう気を遣わず、死んでしまった方が、楽なんじゃないか。
いちいち健康に気をつかって食べ物も制限して生きるより、好きなもんガバガバ食って早死にする、と豪語していた伯父さんがいたが、今、ほのかに、そんな気分だ。
生きるに対し、何の指針もないことが原因なのかもしれない。例えば何を犠牲にしてでも何かを成し遂げたいという思いがあるならいっそ楽だ。それに従い全てを決めればいい。その目標にいらないものは切り捨てればいい、そんなことができる。
俺にはそんなものは今ない。ここ数年の目標やビジョンならあるが、人生を通したそういう目標がない。そんなものないのが普通なのかもしれない。
流動的なのだ。切り捨てられない。後から必要になるかもわからないから。後から指針が変わるかもしれないから。だから全てに保険をうっておかなきゃならない。これをしさえすれば後は死んでもいいという指針でもあれば、健康など気にしなくたっていいのかもしれない。何もないから、とりあえず長く生きたいと気にしだす。
もともとからして、気にしやすい性格なのだ。
もう面倒だ。
全てが気になる一方、その反発で時に全てがどうでもいい。
何書いてるのかわかんない文章になってしまった。でもどうでもいい。気持ちをはけただけでよしとする。
君がいちヴぁん危ない