2007-04-24

あるメーリングリストで、ある人が、自分の過去の体験に基づいて、現状が極めて厳しいものであり、他人の善意や常識をあてにした方法では全く対処できないことを主張している。それでも彼は現状を変えようと新しい方法にチャレンジしている。

しかし、彼の発言の「現状が極めて厳しいものであり、他人の善意や常識をあてにした方法では全く対処できない」という部分をとりあげて、「そんなに悲観視することは無いのではないか?」「もっと希望を持ってもいいのではないか?」「そんなふうに考えてしまうのは寂しい。」「日本がそんな国だとは信じたくない。もっと社会未来を信じよう。」というような反論が寄せられている。

私はこのような反論にものすごい違和感を覚える。最初の発言は、発言者自身のまさに血のにじむような実体験に基づいて発せられたものなのに、その発言の根拠となっている体験を全く無視するかのごとく、発言そのものの表面的な雰囲気をとりあげて、「もっとポジティブに」「もっと希望を」「それでは寂しい」「信じたくない」というのは、単なる現状の否認と、イメージ操作なのではないか。不誠実にも程がある。万が一筆者の体験の自己認識記述に何らかの程度のバイアスが混在している可能性を指摘する意図であれば、ストレートにそう言えばいい。

絶望的なまでの現実をあくまで冷徹に見つめてこそ、むしろ将来への希望が生まれてくるのではないか。その現実言葉の上で「無かったこと」にしてポジティブ空気をつくりだそうとするなんて、あまりに欺瞞的で、とうてい受け入れられない。

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