僕が通っていた小学校では、毎年運動会の競技に選手リレーというのがあった。
各学年から足の速いやつが選ばれてリレーするっていうのだけど、今もしてるとこあるのかな?
小さいころ、僕は何故か足が速くて、毎年その競技に選ばれていた。
毎回、抜かれたらどうしようって思ってドキドキしながらスタートラインに立ってたけど、
何年生のころだったか、足の遅い子がかわいそうとか何とかいう理由でその競技はなくなった。
毎年、結構その競技に出るのがあたりまえとなっていた自分としては少しショックで
「何それ」って思いながら、おとなしいタイプだったので誰にも何も言わずにいた。
思えばあれが自分にとっての教育不信のはじめの出来事だったと思う。
もちろんキョーイクフシンなんて言葉は知らなくて、
ただ、「個性の尊重」とか「平等」とか大人の言い訳にしか聞こえなくて、「何かおかしい」とだけ漠然と思っていた。
確かに、もし自分の足が遅かったら、なくなってよかったと思ったかもしれない。
各学年の代表を決めるときにタイムを計るんだけど、
自分はたぶん自信にあふれた顔をしてたかもしれないけど(イヤな子供だ!)
負ける子に対してはかわいそうというか、勝ってゴメンって思うほど、
負けることの悔しさというか、どうしようもない身体能力の差を見せ付けられることの悲しさは感じ取れてたと思う。
(そういえば、真面目に走っても勝てないことを分かっていた子は、わざとちんたら走って先生におこられてたな。)
まあ、それでも自分としては、負けるのもイヤだし、かといって大差をつけて勝っても気が悪いしということで、
わざとセーブして走って、好レースになるように演じてたりで、それなりに気づかってたんだけど(なんてイヤなガキだ!!)。
今の子供たちは、僕らの時代よりもっとタフさが必要な大変なところにいると思うけど、
僕が感じたような大人の言い訳臭さを感じてるとしたら、それはどんなことかな。
たぶん、うまく言葉にして出せないだろうけど、汲み取れる大人になりたい。
そして言い訳を言わない大人になりたい。
自分では言い訳を言ってるつもりはなくても、子供にとっては違うだろうし。
自分の子が足の速い子になってくれたら、それはうれしいと思うだろうな。
ところで、高校生くらいになると全然状況は違ってきますよね。
僕は高校の時帰宅部で、足の速さなんて過去の栄光にもならない代物になってたけど、
陸上部員とかはやっぱりめちゃくちゃ早くて、あれは一つのレースとして見て面白かったな。