2007-03-20

オールジャスティス

例えば二者間で争いがあったとして、片方が中傷されている立場である場合、中傷されている側にとっての正義は自身にあるのだと思う。正義が自身にあるのだから中傷してくる相手を糾弾する権利を所有するのは当然だ。一方、中傷をする側にとっての正義がどちらに存在するかと言えば、これも当然自身にあると判断しているものと考えられる。そうでなければ、相手を責めるにあたり逡巡の痕が垣間見えるか、あるいは攻撃することすらしないものだから。

どちらも正義であるならば、双方ともに「相手は間違っている」と否定することはごく自然なことだと思う。お互いが主観に基づいて正邪の判断をする限り、二者間の争いに決着がつくことは無い。

また一方で第三者の立場で、その争いを俯瞰する場合にも、無意識に人は正邪の判断を下す。第三者による判断の基準ですら、その人の主観によるものだ。どちらに共感できるかによって善悪の区別の仕方が異なってくるだろう。もっと言えば第三者が「あなたは正しくて、あなたは間違っている」という意見を述べた際にも、その判断に対して正邪の判断を第三者が下すことができる。主観を基準にする限り、何が正しくて何が正しくないのかということが、とても曖昧模糊なものになる。

当事者同士の争いは、そのどちらもが自身にとって正義であるが故に収拾がつかないものだろう。だからこそ、そういった無益な争いを避けるために法律があるのであって、誰もが共通の正邪の認識を持てるようにしてあるのだ。

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