何十万というドイツの処女たちが あのガニマタのユダヤ人たちに
毎日誘惑されているかと思うと 気が狂いそうです
差別心というのは普通誰にでもあると思う(俺にも当然ある)。それを持つことは特に責められるべきことではない。ただし、差別心を元に誰かを(社会的に)差別する、あるいは差別的な言辞を直接投げつけたりするのは、明らかに問題であり、批判されるべきである。
何故なら、差別心を持つ人がそれを胸に秘めている限りは、とりあえず「あの人は差別されている」という「事実」は表面化されることはなく、またその当人が気付くこともないわけだが、それが表明された時点で、まず「あの人が差別されている」というコンセンサスが社会の側に出来、またその当人が「自分が差別されている」ことに気付くからである。
これは、当人にとっては「あの人が差別されている」というコンセンサスが社会の構成員によって特に批判されなかった場合、自らが(差別によって)いかなる不当な扱いをも受け得るということを意味し、また直接他人から差別されることで人としての誇りをも傷つけられるわけだから、二重の意味で大変な不利益を蒙るのだ。
(誰にでもある)「差別心」というものが、ほぼ全て個人の好みや偏見で成り立っている以上、そのようなものを理由に上記のような著しい不利益を他人に負わせる権利は、少なくとも民主主義の社会においては誰にも無いはずで、勿論国家についても同じことが言えるだろう。
ナチス時代のドイツ人は、誰もが差別心を表に出すことを憚らない差別主義者であったからあのようなことを行ったわけではなく、独裁者の叫ぶ「ユダヤ人は悪だ!」という叫びに(自らの内なる差別心をもって)同意してしまったからあのようなことを行ったのである。
差別心を表明することによって立ち現れる「社会的な差別」は、いかなる意味においても有害であるし、端的にいって民主主義社会の敵である。
もっと良く考えればわかる事なのに、なんでそうなるかな。順を追って説明するから、以下の文章をよく読んで考えて欲しい。ちょっと長いから時間のあるときに読んでね。僕は日本人じ...