2007-02-08

私を食べて下さい。それが彼女の最初で最後のわがままだった。

彼女が死んで3日後。準備は全て済んで後は待つだけとなった。1日目にはホームセンターにノコギリと寸胴鍋を買いに行った。2日目には彼女風呂場で切断した。愛する彼女を切断するのは気が引けたけど、そのままでは食べることができないので切断した。そして3日目。バラバラに切断した彼女を寸胴鍋に入れて煮えるのを待っている。火で炙ろうかとも思ったのだけど、彼女は火葬が嫌だと言っていたのでやめた。ぐつぐつぐつぐつ。彼女が入った寸胴鍋をぼーっと見ている。ノコギリで切断したときも思ったことだけど、愛する彼女が肉片になっていくのはやはり悲しかった。それもノコギリで自分が彼女をバラバラに、肉片に、彼女を分解していく感触は堪らなかった。しかし、ぐつぐつと煮える鍋をぼーっと見ていた。涙も胃の内容物も、彼女が死んでから何も食べていなかったので胃液しかなかったが、とうに全て出し切ってしまっていたのだから。ぼーっと煮えていく鍋を、食材に変わっていく彼女を見ながら僕は彼女のことを考えていた。

僕は彼女を心から愛していたし、彼女もそうであったと思う。彼女はわがまま一つ言わないとても大人しい女性だった。そんな彼女が初めて言ったわがままが、私を食べて下さいということだった。初めは耳を疑った。その言葉を理解できなかった。これは聞き間違いだと自分を落ち着かせるために3度深呼吸をして彼女にもう一度尋ねたが、やはり答えは同じだった。彼女は火葬が嫌だと言う。火葬されるくらいなら土葬がいい。土に還り、私が皆の糧になれるからと。そしてどこの誰とも知れぬものの糧になるよりも最愛の人の糧となりたい。死んであなたの側にいれなくなるのなら、あなたに食べられてあなたと一緒になりたいと。言いたいことはわからないでもない。しかし、やはり感覚的には到底受け入れられるものではなかった。僕は君を忘れない。君は僕の心の中にいつまでもいる。それでは駄目なのかい?と彼女に問うた。しかし、彼女は当然のように否定した。彼女は心の中に生き続けるという考えは好きではないと言う。そして、もし僕が他の女性を好きになり結婚し、子供が産まれたとき、そこに私はいない。でも、あなたと一つになれたなら、その子は紛れもなく私とあなたの子になるではないですかと。彼女は体が弱かったので子供を産めなかった。だからそのようなことを思うのかとも思ったが、やはり受け入れられなかったので議論はいつも平行線だった。

しかし、彼女に死が近づいてもなお、いや、近づくにつれますます、彼女は私を食べて下さい、私を食べて下さいと切に願うようになった。衰弱し、言葉を喋ることが難しくなっても彼女はひたすらに私を食べて下さいと枯れきった声で言うのだ。そして僕は必死になってせがむ彼女を見ていられなくなり、彼女の最初で最後のわがままを受け入れてあげようと、彼女を楽にしてあげようと、彼女に言った。「うん、わかったよ。」と。彼女は最初に驚き、そして涙を流し「わがままを言ってごめんね。でも、ありがとう。あなたを本当に愛していました。」そう微笑みながら言うと、安心したように眠り、もう目覚めることはなかった。

鍋が煮えた。彼女を皿に盛りつける。その臭いと、彼女が皿の上に出されているという目の前に現実に、もう涙という涙、吐瀉物という吐瀉物を出し尽くしたはずなのに、涙が出て、吐いてしまった。洗面台にタオルを取りに行った。洗面台の鏡を見ると涙は涙と言えるほどの水分は出ておらず擦りすぎた目のせいか仄かに赤くてらつくだけで、服に吐いたそれは吐きすぎて痛めた喉の血が混じった唾のようだった。口に入れる前だから良かったものの、口に入れてからはもう許されない。彼女を微塵たりとも吐き出すことなんて許されない。だから今度こそ涙も吐瀉物も出し尽くさなければ。そして出尽くした体から更に赤いものを出して3日目が終わった。

彼女が死んで以来ほとんど寝てなかったせいか起きると5日目になっていた。飲まず食わずどころか、吐き続けていたので飢えも渇きも限界だった。居間に戻ると彼女が入った皿がまだあったので、少し途惑いながらも口に入れた。抵抗がなかったと言えば嘘になるが、先ほどまで寝ていた中のほとんどでその夢ばかり見ていたからもう何十度と彼女を食べていたし、それに何より飢えと渇きには勝てなかった。最初はおずおずと汁を啜り、肉を啄んでいたのだけど、次第に貪り食うようになった。何もかも限界だったようで、一度堰を切ったら止まらなかった。涙が出ているかと思い目に手をあててみたが何も出ていなかった。当然吐き気もあったが、それ以上の食い気に押されてひたすら食べた。味はわからなかった。どんな料理よりも美味であったようにも思えたし、どんな料理よりも不味かったようにも思えた。ただ、一つわかったことは彼女のおかげで僕は生きることができるんだという、食べることによって命を繋ぐことができるんだという、ただただ、原始的な感情だった。

それから2日間、僕は彼女を食べ続け、そして食べ終えた。そこにはもう彼女はもちろんのこと、僕もいなかった。

その後、警察に行き、自首をした。自分がしたことは死体損壊だろうから。何度も事情を話したが誰も理解できないようなので、今これを書いている。皆が理解できるとも、理解してほしいとも思わないが、僕と彼女に捧げるためにも書くことにした。もう僕も彼女もここにはいない。ここには僕と彼女だったものだけがいる。

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