http://anond.hatelabo.jp/20070119215515
そして「理解した」と「理解したつもり」の境界線もそこにある。
この境界線は意外と曖昧。あるいはそもそも境界線が存在しない。
なぜなら、「AがBを理解する」というのはあくまでもAの脳内で行なわれている情報処理であり、Aの脳内におけるB理解をBの脳内におけるB理解と直接対照させ外形的にその異同を明らかにすることができないので。
「AがBを理解する」とは、「AがBを理解したつもりになる」ことと同義だ。
じゃんけんのルールは、3種類の手の優劣関係などの手続き的ルールによって、結論を外形的にはっきりさせられるという特徴を持つ。結論の出し方までもが、ルールで事前に決められているからだ。
日常言語による議論や“理解”ではこうはいかない。議論における日常言語の複雑怪奇でほぼ無限と言っていい使用法の中では、ルールはしばしば事後に決定されることも多い。「勝者のルール」などという形で。または、勝者の「理解したつもり」がそのまま事実上の一般的「理解」として通用するという形で。
http://anond.hatelabo.jp/20070120011728 言語ゲームの観点からそのような突っ込みができることは了解している。 しかし、これまで知のコンセンサスとして培われてきた「議論のルール」は、 果たし