2009-06-22

実際には部屋は薄暗くなどなかったのに、薄暗いように錯覚していた。

薄暗がりの中から、うつむき加減だった彼女はそのつぶらな瞳をゆっくりと開いてこちらを見据えた。

彼女は、どこへ配属になってもいいと言った。ただ、営業だけはいやだと、澄んだ揺るぎのない声で言った。

あの仕事は胃を壊します、私はたぶん死にます、と簡潔にいう彼女の瞳はただ静かだった。吸いこまれるような闇だった。パートさんに事務を、と答えた僕を彼女はただ、じっと見返すだけだった。

薄暗がりの錯覚彼女の瞳のせいだと気づいたのはそれからしばらくたってだった。

彼女はしばらく働き、そして夫の転勤でやめていった。誰かの冗談にころころと笑いながらいつの間にか仕事を片付けていく彼女から、あの薄暗がりの気配は感じられなかったが、ときどきコピー機の前でコピーが出てくるのを待ってうつむいている彼女の前にいつも日はさしていなかった。そんな気がしていた。

あの薄暗さはなんだったのだろうか。決して暗い印象の人でもなく、不幸を背負った顔をしているわけでもなく、楽しそうに笑い、ユーモアのある話をしていた彼女は、しかし記憶の中ではいつも薄暗がりの中にいる。

彼女は亡くなったそうだ。仲の良かったパートさんがそう教えてくれた。記憶が書き換えられているのか、それとも。

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