2008-06-14

http://anond.hatelabo.jp/20080614053656

たとえば「性」だって虚構だ。性を二つに分けるのは一種の便宜に過ぎない。

だがその「便宜」にこだわらなければ次世代が生産されず大げさにいえば人類は滅びることになる。その便宜には益がある。

一方で「◎◎人(は××だ)」という虚構がある。これは、たとえばある人にとっては海外旅行で身を守るための「便宜」であると考えられているかもしれない(だが本当は国外が危険で国内が安全というのは単なる思いこみに過ぎない)。だからそういう人はその「便宜」は有益だと主張するだろうし、他人は「そういうくだらない思いこみに囚われて人生を損してるかわいそうな人」扱いして「無益」を主張したり思いこみを棄てることで得られる「益」を主張するかもしれない。それぞれに自分の「益」を見つめていて、しかもその「益」が非常に精神的な者であったりする場合両者の相互理解はそのままでは不可能だ。だが、無理解が諍いに発展したりすれば、それこそ「無益」ではないか。

だから、そういう益か害かについて論議したい対象については、敢えて「『人種民族国家』など幻想に過ぎない」と言明することに意味があると考えられる。事実としてそうであるということ(事実の言明)と、確認することから何かを生み出そうとすること(確認行為)は全く別の行為である。

たとえば駅の改札口で、何かを忘れそうになって指さし確認し「俺は今切符を買おうと思ってたんだよな」とひとり呟く人は、別に事実を言明しているわけではない。

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