と懇願されても、自分がそれを聞きいれることはない。一旦本気なのだと解釈してしまったら、あとから誰がなんと言おうと、それを創造した人間がどうしようと、何があろうとそれを塗り替えることはしない。今、唯一たしかなのは、それが虚偽か真実かということではなく、自分がそれを信じているのか、信仰を試されているということだけだ。信じたいものを信じることしかできない。確実にあるのは主観だけだ。客観はあやふやだった。積み重なった主観が形成する客観のようなものがあるのかすら定かでない。あると思えばあるし、ないと思えばない。その程度のものだ。もはや絶対的に正しい表現者と、絶対的に正しい受け手の自分信仰しか存在していない、と自分は思っているのだ。
極めて個人的な、了見の狭い話ではあるが、それで充分なのだった。それに則ることが傍から見て滑稽であって、まったくのお笑い種だとしても気にならない。自分を嗤笑するものなどこの世には誰もいないと知っているから。自分を信じているから。
そう、自分を信じている。人付き合いが苦手なことを嫌悪していて、それを改善しなければならないのだという常識的な観念にとらわれている自分を更に嫌悪しているような、どっちつかずの自分を信じている。他人を羨むことと妬むことばかりしていて、すぐさまそれはいけないことだと勝手にこころのうちで自重してから、バランスをとろうと自分のいやな部分を一時間も二時間もあげつらい自嘲することのできる自分を信じている。
そういう曖昧な自分自身が大きらいで、だから己ほど信用に値しないものはないという判断をくだした自分を、頑なに信じつづけている。