はてなキーワード: 芥川龍之介とは
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どちらも両極端な論だと思います。
総じて、自分の周りに存在している事物を、自分と関連づけて考えすぎです。
「人生は神ゲー」だと考えるあなたには「芥川龍之介『蛙』」をどうぞ。
あしの葉の上にいるかえるは、いぜんとして、大きな口をあけながら、言っている。
「空はなんのためにあるか。われわれかえるの背なかをかわかすためにあるのである。したがって、全大空はわれわれかえるのためにあるのではないか。すでに水も草木も、虫も土も空も太陽も、みなわれわれかえるのためにある。森羅万象がことごとくわれわれのためにあるという事実は、もはやなんらのうたがいをもいれる余地がない。自分はこの事実をきみたちの前に明白にするとともに、あわせて宇宙をわれわれのために創造した神に、心からの感謝をささげたいと思う。神の御名はほむべきかなである。」
芥川龍之介「蛙」より
芥川龍之介の佳作「蛙」です。物語では、この後へびが現れて、カエルを食べてしまいます。しかし、カエルたちは、それは我々が増えすぎないようにとの神の思し召しである、と無理矢理納得するのです。
つまり、「人生は神ゲー」と現実を肯定しすぎる人は、不条理に正しく直面することができません。
不条理とは、避けようもないし立ち直りようもないからこそ不条理なのです。不条理をゲーム内の難関のように考えてしまうと、そこに陥った自分、そこから立ち直れない自分を責めてそこから抜け出せなくなる自虐の罠に容易に陥ります。
そしてそれに堪えられなくなったとき、「人生は神ゲー」から「人生は糞ゲー」という極端なパラダイムシフトに陥ってしまうのです。
けれども、「人生は糞ゲー」という極端な現実否定も生産的ではありません。
現実の人生には不条理とは逆に幸運ということも起こり得ますが、「人生は糞ゲー」だと思っていると、その糸口さえも逃がしてしまうかもしれません。あるいは、窮地から抜け出す努力をついには諦めてしまうようになるかもしれません。
しかし、現実はどちらでもないのではないでしょうか。
世の中には不条理も幸運もあります。そしてそれは公平に配分されているわけではありません。所詮、世界のあらゆる事物は我々と無関係に存在し、振る舞うのです。あらかじめ念入りに調整されたゲームとは全然違います。人生は神ゲーでも糞ゲーでもありません。
価値があるとすれば、それでも現実をどうにか切り開いて一生懸命生きていくことではないでしょうか。ゲームの攻略法のようにうがった視点からではなく。それが本当に人生に対して真摯な態度だと思います。
なるほど「奴隷は産業革命による経済構造の変革によってなくなった」それは良いことに気が付きました。
政治的天才
古来政治的天才とは民衆の意志を彼自身の意志とするもののように思われていた。が、これは正反対であろう。寧(むし)ろ政治的天才とは彼自身の意志を民衆の意志とするもののことを云うのである。少くとも民衆の意志であるかのように信ぜしめるものを云うのである。この故に政治的天才は俳優的天才を伴うらしい。ナポレオンは「荘厳と滑稽との差は僅(わず)かに一歩である」と云った。この言葉は帝王の言葉と云うよりも名優の言葉にふさわしそうである。
又
民衆は大義を信ずるものである。が、政治的天才は常に大義そのものには一文の銭をも抛(なげう)たないものである。唯民衆を支配する為には大義の仮面を用いなければならぬ。しかし一度用いたが最後、大義の仮面は永久に脱することを得ないものである。もし又強いて脱そうとすれば、如何なる政治的天才も忽(たちま)ち非命に仆(たお)れる外はない。つまり帝王も王冠の為におのずから支配を受けているのである。この故に政治的天才の悲劇は必ず喜劇をも兼ねぬことはない。たとえば昔仁和寺(にんなじ)の法師の鼎(かなえ)をかぶって舞ったと云う「つれづれ草」の喜劇をも兼ねぬことはない。