思うに、「あめ一個とチョコ一個を買った。それ以外は何も買ってない。この場合合わせて買った数は二個である」ということの証明と、「1+1=2」であることの証明は、別個の問題なのではないかと思いました。
小学校では文章題としてあたかも前者の答えを求めさせるのに後者のような式を書かせるので、あたかも前者と後者は同一視すべきものかのような認識を植え付けられている気がしますが、両者が同じである理由は無いのではないでしょうか。慣性質量と重力質量が同じである理由がないようにです。
数学の起源が古代エジプトかさらにそれ以前か知りませんが、その諸説あるうちのどれをとってもたかだが数千年前でしょう。
しかし数の概念となれば何万年も前から人類は持っていたと思います。
「リンゴ一個ともう一個、合わせて二個」というのはこの数学以前の数の概念しかなかったころから疑いなく事実だったはずです。
つまり数学上の数の定義があるわけでもないころから、なぜ上記のことが疑いないことなのかということになります。
当時のたとえば「2(つ)」という概念の定義は、ひとつふたつみっつ…と数えたときの二つというような定義だったのでしょうか。これだと定義としては循環論法です。あるいは、紐を棒に二回巻いたときの、その巻き数と数が同じ、とでも定義されていたのか。
これはこれででは「数」の定義は?「数における「同じ」」の定義は?となってしまいますよね。
でもとにかく、誰にとっても「リンゴ一個ともう一個、合わせて二個」ということが事実なら、当時から、数や、1や2という概念について、定義に相当する明確な共通認識があったんだと考えます。
それはいわゆる「客観的」に言語化可能な認識とは限らないと思います。
色や、右左、ある特定の強さの痛みを客観的かつ普遍的に定義するのは不可能なのと同じです。
たとえば「右」を「左でないほう」などと定義するのは定義になってないですよね。心臓がない方、というような個物によった表現も普遍的な定義とは言えないでしょう。
色にしても、波長で定義しても、色盲にとってはその波長では定義者が想定するのとは別の色で見えていることがあるので、原理的に言語的な定義は不可能ともいえます。
それなのにわれわれは、左や右が青色が何かをこれ以上ないぐらい明らかに理解しています。
受験等正しく答えることに相当のインセンティブがある状況で、左右に●を並べて書いた用紙を渡し、左である方を丸で囲めという問題が出たら、知的障碍者や天邪鬼以外は正しいほうを囲んでいるでしょう。
(天邪鬼すら、天邪鬼なことができるのは左を正しく理解しているからともいえる。)
自然言語で使う数学以前から存在する数の概念もこれと同様なのではないでしょうか?
とすれば数学で定義されている数と、自然言語の数(に対する定義に相当する認識内容)は本質的に別物で、数学上の計算が自然言語での数の把握に道具として使えるのは「そうでなければならない理由自体は無い」ものなのではないかと思いました。
dorawiiより
先に言っとくわ。ゲルストマン症候群とかあげて反論した気になるのは違うと思うんだ。
正しく答えられる人が一定数いて、その正しく答えている人の中で左が何かということがこれ以上ないぐらい明確で、常に左に対して期待した方向を示せるということが重要なんだ。
下手の考え休むに似たり 頭悪いのに考えてるふりすれば誰かかまってくれると思ってる増田キショいな。