不謹慎な内容だが、自分の仮説をインターネット上に文章として残しておくべきだと感じたので投稿する。
敬虔なアバンティーズのファンの方々、モラル警察の方々はここでブラウザを閉じていただきたい。
いわゆる夭折した天才はどの業界にも存在する。
日本の文学界には特段多く、正岡子規や金子みすゞ、石川啄木が死因はともあれ、20代でこの世を去った。
アーティストにも同様のことが言え、尾崎豊やカート・コバーンが例として挙げられる。
今回亡くなったアバンティーズ エイジは22,3歳だというから間違いなく夭折と言える。
ついにYouTuberという業界においてもスターが夭折した。
自分はかねてから夭折した天才に強く興味を引かれていた。
余暇を見つけてはネット・ブラウジングをして夭折した著名人を洗い出し、彼らの背景に垣間見えるストーリーを見つけようとする。
その中で、自分はある仮説を立てた。
「夭折した天才が現れたマーケットは成熟したといえる」
というものだ。
特段確信があるわけではないが、
この2つの条件を満たしていなければ「夭折した天才」とみなされないだろう。
仮に一般層にまで認知が行き届いていない場合、その「死」は単なる「死」として存在し、「ニュース」にまでは昇華しない。
また、突然死が確率的に起こりうる母数が存在しない場合、「死」が発生するという事象自体が非常に稀有なケースになるはずだ。
アバンティーズ エイジの死は、特にティーン・エイジャーにとって新春のビッグ・ニュースになった。
「死」という概念に重経をつけるのは良くないが、年配の俳優の死や、政治家の死よりよっぽど彼らの心に重くのしかかっていることだろう。
きっとエイジは神格化されるだろう。かつての志村正彦のように。
自分はいつかこのタイミングが来るだろうと思っていた。自分が想像しているよりもいくらか早かった上に、誰が亡くなるか予想するほどの悪趣味ではないので、預言していたわけではないが。
自分はこのニュースで確信した。間違いなくYouTuber市場は成熟した。
戦後にテレビが日本の家庭にウイルスのごとく浸透していったのと同様の現象がいま、スマートフォンの画面の中で起きている。
小中学校の教室の話題は、エンタの神様からはじめしゃちょーや東海オンエアに変わり、企業の広告出稿の先はTVCMからYouTuberの案件に流れた。
そんな大きなパラダイム・シフトの中で、象徴として歴史に残るのがこの事件であろう。
この事件を境に、社会はYouTuber市場を成熟したマーケットだと認識するようになる気がしてならない。
ここからは、YouTuber市場でも自殺や薬物がある一部でじわじわと生まれてくるだろう。
それは、業界が汚れていくという意味ではなく、コモディティ化したコミュニティにおける当然の流れだ。
ある程度成熟したマーケットにおいて、人間の動きは社会の縮図に近づいていく。アーリー・アダプターしか存在しない黎明期においては、特異なコミュニティが形成されるが、成熟されたらそれは一般社会に近づく。
YouTuberを筆頭としたインフルエンサーがコモディティ化し、芸能人との役割が曖昧になる。
既存のプレイヤーが新規プレイヤーにリプレースされる瞬間は何も突然訪れるのではなく、境目を曖昧にしてじわじわと迫っていく。
その境界線はあくまで曖昧であるから、日常生活における特段の変化はあるまい。
ただ、2019年はきっとそういう年になる。