友人が亡くなった。
最後のツイートにおやすみとだけ残し、2週間後にネット上の友人づてで知らされた。
正直に言う
最初に感じた感情は安堵だった。
そのツイッターの友人と最初に知り合った時のことはもう覚えておらず、ツイッターのidも名前も変更しており、検索するのは不可能だった。
それでも、ツイッター上で馬鹿なことをやって楽しんだり、実際に現実で会って酒を飲んだり、その友人宅に泊まらせてもらったこともあった。
とても楽しかった。
しかし、数ヶ月ほど前のこと。私の専門分野のことを知った友人は、私に仕事を振ってきた。信頼されているように感じて嬉しかった。
しかしその反面、まだ未熟な私はきちんとした成果を出せなかった。中途半端な完成物を手に友人は笑顔で受け取ってくれた。
私は恥ずかしくてしょうがなかった。かなりの時間をかけたのに素人同然のものを納品し、しかも少なからずお金を受け取ったのだ。
本当にしょうもないことだとはわかっている。けれどもまだ思い出すと鬱になる。
そんないいところを出て、こんなものしか作れないのか。
こんなものでお金を受け取ったのか。
友人にそんな思いがあったのかは今はもう確認できないが。そう思われていたと。この不安は一生つきまとうだろう。
だってもう確認でできないんだもん。
死んでしまっては、その思いがあったのか。もしなかったとしても、これはもう一生後悔として残るしかないのだ。
友人から亡くなった友人の名前を出された時は、もしや不満が爆発して「あいつはこんなクソを作ってたんだぜ」なんて言われるのかと思った。
そして友人からは侮蔑のまなざしを向けられるのかと。本当に覚悟をした時だった。
しかし、友人から切り出された話は亡くなった。そういうことだった。
だから安堵してしまった。
本当に屑だと思う。
友人が亡くなったというのに、一番最初にそれかよ。と
電話を切ったあとは、亡くなったという言葉だけが残り、実感は全くわいてこなかった。
悲しいとか、驚愕とかでもなく、ただただ死んだ。その言葉だけが残っていた。
訃報を聞いてから数時間たってようやく、亡くなったという。もう彼はこの世にはいないということがわかってきた。
ツイッターを覗いたら、数週間前で止まっており、最期のツイートに労りの言葉がリプで送られていたからだ。
親しかった人間は、たぶん早い時期に知らされていたのだろう。亡くなった日からのネガティブなツイートが散見された。
俺が悪かったのだろうか。
いやそんなはずは無い。仕事のミスはこちらが悪いだけだし、何しろむこうは死ぬほどの損害を受けているわけでは無い。はずだ。
ではなぜ死んでしまったのだろう。最期にツイートを残して、そしてそれから死んだとすると、過労や事故では無く、やはり自殺だろう。
何が彼を死に追いやってしまったのだろう。
やはり、漠然とした不安だろうか。
日本でもトップクラスの大学を出て、大学院にまで進んで、そしてそれから中退したと聞いている。
自分ではこの世に傷跡を残せない不満感とか、幸福というものが感じられなかったのだろうか。
死んでしまってはもう確認することもできない。
思い返すと私も、中学時代にもう死のう。とマンションから飛び降りようとしたことがある。
親に止められて未遂で終わったが、記憶を掘り返すと、行動に移してしまうと、落ちるときは怖いだろうなあとか、痛いのだろうか。とかそういうことにまで頭が回っていなかった気がする。
その後も、死にたい。死にたいとぼやき、見かねた親がそれなら死なせてあげると車に私を乗せ、数十分走らせたところで怖くなり、やっぱり嫌だと。断ったことを思い出す。その後は、口癖で死にて〜なんて言うことはあっても、気持ちは全然そんなこと無いというものがずっと続いている。ただの鼓舞の言葉である。
なぜそんなに死にたかったのだろう。
部活もなくなり、それなりに成績もたたき出し、好きなことも多少はあったはずだ。
頑張って思い返しても、死にたかった理由が思い出せない。
無気力感、漠然とした不安、そんなことだろうか。
生きててもどうせつらいことが多いし、もう、いいかな......そんな感じだろうか。
どこかの噂によると、頭のいい人間の方が自殺するパーセンテージが高いと聞く。
なにかを察してしまって。楽になりたい。そんな感情が起こりやすいのだろうか。
彼は私が会ってきた人々の中でも、上位で頭がよい人間だった。
トップクラスの大学を出て、院にも行って、法律にも詳しく、雑学も豊富で、ユーモアに富んでた人間だった。
しかし、大学院にしろ、ほかのことにしろ、直接結果がつながると言う話は聞いたことが無かった。
そこが始まりなのかもしれない。
しかし、こんなことを考えても、本当の答えは本人しか知らなくて、もう喋ってくれることは無い。
答えも聞けない。また遊ぶこともできない。馬鹿をやることもできない。
テキトーに生きいていけばいいじゃん。
日本だったら生活保護があるからまず死ぬことはないし、それでもだめだったら盗人でもして牢屋でも入れば食に困ることは無い。
生きることはできるはずだ。
亡くなったと実感してからは、もっとコミュニケーションをとればよかったなと。そんな後悔ばかりが浮かぶ。
きちんとあんなもん作ってごめん。と謝ればよかった。
社会性フィルターなんていってつらそうにしているときに声をかけておけばよかった。
だいたい最近、ツイッターに浮上していなかったじゃないか。ほかのアカウントで悠々としているのかと思ったけど、それは予兆だったんだ。
つらかったら自分らに声ぐらいかけてもいいじゃないか。
こんなことを書いても、自分の気持ちを整理するぐらいしか意味は無いとは思う。
しかし、ここまで読んでくれた人がもしいたなら、後悔はしないよう生きてほしいと。そう忠告を出すことだけはできる。
気楽に鬱っぽいツイートをしている人がいて、なんだメンヘラか。なんて思うことはいくらでも簡単だ。
しかし一言ぐらい声をかけてやってもいいんじゃないだろうか。
明日には本当に亡くなってしまうかもしれないぞ。
そしたら自分は、後悔の念に囚われると思う。
そして友人に、いくらかのネガティブな思いを持っているひとも多いと思う。
そんなことで鬱屈とするなら、本人と向き合って、さっさと解消してしまうのが良い。
明日死ぬかもしれないし、何年後かに死ぬかもしれないし、それとも自分の方が早く死ぬかもしれないけど、
さっさと解消して、気持ちの悪い状況など一掃してしまった方が精神上良いと思う。
まさかあんなに若く、こうも自分が友人を送るとは思ってもみなかった人間からの言葉だ。
人生は一度の道のりです。是非楽しく、後悔の少ないよう送れると。いいですね。
またはるしにゃんの話ししてる
うんこ