人から「君は要らない」と言われるのが本当に怖い。
言う側は別に「君はここにはあっていない」とか適材適所な理由で要らないと言うのだろうが、言われる側の私にとってその言葉は「君はこの社会に必要ない」と言われるようなものだ。言われる度に胃が絞られるような感覚に陥り、人知れず涙をこぼし少なくとも3日は無理にでもしないと動けなくなってしまう。
私は物心つくころから「結果を出し周囲から認められること」を自身のアイデンティティに据えて生きてきた。
両親からは「投資した見返りを出せないお前は一体何なんだ」と罵られ、同世代からは幼い頃から「何をやってもダメ」といじめをうけた。所謂「爪弾き者」と呼ばれる人間だったというわけだ。
そんな奴らを黙らせるために、自身が社会の一員として迎え入れてもらえるためには否が応でも認めざるを得ない結果が必要だった。
小学生の頃は「高い運動能力と100点のテスト結果」
中学生の頃は「部活や生徒会といった組織のリーダーであること」
高校生の頃は「上記2つの事とどれだけ異性からモテるか」
大学生の頃は「課外活動と勉学の両立、異性からモテること」
いつだって死に物狂いで努力した。気を抜けば再び自分は社会から弾かれ、「ばいきん扱いされた」暗黒時代に逆戻りしてしまうかのように思えたからだ。
集団の中にいる人気者を観察し、何故そいつが人気者足りうるかを自分なりに研究、そして実践をなんども繰り返した。
人気者に共通する話し方や振る舞い方、服装、周囲に振っている話題、即座に出てくる雑学…いろんな事を勉強したことを覚えている。
いくつかの会話パターンを用意し、鏡の前でコミュニケーションの練習をしたのは懐かしい。
私は周囲に認められる為にここまで頑張ってきた。自分で言うのもなんだが、十分すぎるほどにやってきたと思う。肉体はともかく、精神の方はとっくに限界だ。もう頑張りたくはない。だが人は私のことを時に「要らない」と言う。あなたは「必要無い」と言う。そういった言葉をかけられると、自分が今までにしてきた努力が無価値なものに思え、ひいては人生そのものが無駄だったように思えてくる。結局私は社会の「ばいきん」なのだという想いがこみ上げけてくる。
別に周囲を気にせずとも生きていけると自分に言ってくる人がいる。だがそういう人に限って、自身を認めてくれる他者が確実に存在するのだ。友人であれ、両親であれ、配偶者であれ、彼氏彼女であれ。合理性を廃除したところで自身を認めてくれる他者が存在するのだ。ふざけるなと思う。私にはそんな人はいなかった。「凄いね」「流石」、かつて私に向けて「気持ち悪い」という言葉を浴びせた男は俺に向けてそう言った。「あなたといると安心するの」夜のベンチで、昔俺の陰口を叩いた女は耳元でそっと囁く。ふざけるな。俺はお前ら人間が大嫌いだ。くそったれ。長年付き合ってきた彼女からは「挫折まみれの人生を送ってきたあなたは一生私達のような『普通』の人間になれない」と別れの際に告げられた。そうだ。そのとおりだよ。俺は人生全てをかけてもそっち側に行くことはできない。わかってるんだそれくらい。だけどよ、俺も人間なんだよ。お前らと同じ人間だ。社会的生物である以上、社会の一員にならなきゃ生きていけないんだよ。お前らは社会の歯車は嫌だというが、歯車にすらなれない人間の気持ちが分かるか。必死になって自分を歯車の形に加工し、定期的にメンテナスを重ね、「用済みだ」という言葉に怯える人間の気持ちが。
昔は全てが憎かった。目に映る者だけじゃない。共通性を良しとする社会のシステム、人間の在り方、周囲に対し心の奥で馴染めないと感じている自分が憎かった。憎しみで心を燃やし、そこから得たエネルギーで自分を突き動かしてきた。だが今はもうそんな気力はない。燃料は既に尽きた。「要らない」という言葉に怯える日々を送るばかりだ。願うことなら、一度でいい、「頑張ったね」と言う言葉が欲しい。その一言で救われる気がする。