しかし、無能であるという事実は程度程度において揺ぎ無いので、無能であるということは無能であること以外を表さない。
無能ということは、言い換えれば能なしである。
能なしというのは、他人が決めることである。
その他人が、自分より劣ったものを見下して、能なし、ろくでなし、無能、ばか、というのだ。
それの信頼性は先に述べたとおり程度問題なのだが、言った者と言われた者の間においては絶対なのだ。
誰が誰に言ったかでは、手間もかかるし、信頼性も薄い。
だから、社会的に信頼のおける基準をクリアしたかどうかで、無能かどうかを判断しようというものだ。
たとえば、電話帳にアクティブな関係(たとえば半年以内に一度は連絡をとるような関係)のアドレスがどれだけ登録されているか。
いろいろあるが、どれもないよりはあったほうが善いとされるものである。これを否定するのは、単なる嫉妬や、自分の現状を認められないゆえの逃避である。
だから、大学に入れないというのはある意味で無能であり、就職できないというのも、やはりある意味で無能なのだ。
そういうと、大学に言ってないけど働いてるぞ、無職だけど東大出たぞ、などと言うアホウがいるが、考えてみて欲しい。一方のフィルターをくぐることは、もう一方のフィルターをくぐることを、必ずしも意味しない。数あるフィルターをくぐりぬけた強者が、他のフィルターにくぐりやすくなることはあるが、絶対ではない。
しかし、傾向はある。一子相伝、形質遺伝の獲得、ではないが、同じフィルターをくぐったものは、やはり、別なフィルターもくぐりやすいものである。
つまり、有能なものは有能に、無能なものはより無能に、なるものなのだ。海に棲むように、陸に棲むように。
こうしたことを繰り返し、ニッチを獲得するように、各人の居場所が固定化されていく。
これは悪いことではない。無能は無能らしく生きればいいのだ。他人に蔑まれ、蹴飛ばされ、つばを吐かれるような人間も、必要なのだ。
それが誰とは言わない。そこにいるものが、無能というだけで、誰である、ということを定めまではしない。
ところが、人間というのはわがままで勝手で、無能という烙印を捺されたにも拘らず、有能になりたがる。有能な人間は有能なままでありたがる。
同じところに必要以上の人間は住めぬのだ。
諦めよ。
定員オーバーになったエレベーターは、誰かが降りねば動作しない。
足を切る、首を切られる、そんな人間は必要なのだ。
堀は何重にも重ね、石垣は何層にも積み上げ、敵を阻むのだ。
ただ無能な人が、最初に捨てられる、最初に踏破される、最初に埋められるだけに過ぎない。
脂肪を蓄えるのは、寒さと飢餓への備え。豊かなときに蓄えた脂肪が、何日もの寒さ、何日もの飢えから身を守ってくれる。
無能なものを踏み越えて、有能なものは進むのだ。
それが誰とは言わない。そこにいるものが、無能というだけで、誰である、ということを定めまではしない。 そりゃお前自身なんだから誰とは言えないわなww
論破された人?w
ちょっと意味が分からない 論破など今より過去にたくさんの人がされているだろう どこで論破されたのか具体的に言及してほしい
それの信頼性は先に述べたとおり程度問題なのだが、言った者と言われた者の間においては絶対なのだ。