2010-12-02

いわゆる無能の問題

無能というのは程度問題なので、画一的な指標ではない。

しかし、無能であるという事実は程度程度において揺ぎ無いので、無能であるということは無能であること以外を表さない。

無能ということは、言い換えれば能なしである

能なしというのは、他人が決めることである

その他人が、自分より劣ったものを見下して、能なし、ろくでなし、無能、ばか、というのだ。

それの信頼性は先に述べたとおり程度問題なのだが、言った者と言われた者の間においては絶対なのだ。

もうひとつの基準は、フィルターだ。

誰が誰に言ったかでは、手間もかかるし、信頼性も薄い。

だから、社会的に信頼のおける基準をクリアしたかどうかで、無能かどうかを判断しようというものだ。

たとえば、大学に入れたかどうか。

たとえば、就職できたかどうか。

たとえば、結婚したかどうか。

たとえば、電話帳にアクティブな関係(たとえば半年以内に一度は連絡をとるような関係)のアドレスがどれだけ登録されているか

いろいろあるが、どれもないよりはあったほうが善いとされるものである。これを否定するのは、単なる嫉妬や、自分の現状を認められないゆえの逃避である

だから、大学に入れないというのはある意味で無能であり、就職できないというのも、やはりある意味で無能なのだ。

そういうと、大学に言ってないけど働いてるぞ、無職だけど東大出たぞ、などと言うアホウがいるが、考えてみて欲しい。一方のフィルターをくぐることは、もう一方のフィルターをくぐることを、必ずしも意味しない。数あるフィルターをくぐりぬけた強者が、他のフィルターにくぐりやすくなることはあるが、絶対ではない。

しかし、傾向はある。一子相伝、形質遺伝の獲得、ではないが、同じフィルターをくぐったものは、やはり、別なフィルターもくぐりやすいものである

つまり、有能なものは有能に、無能なものはより無能に、なるものなのだ。海に棲むように、陸に棲むように。

こうしたことを繰り返し、ニッチを獲得するように、各人の居場所が固定化されていく。

これは悪いことではない。無能は無能らしく生きればいいのだ。他人に蔑まれ、蹴飛ばされ、つばを吐かれるような人間も、必要なのだ。

それが誰とは言わない。そこにいるものが、無能というだけで、誰である、ということを定めまではしない。

ところが、人間というのはわがまま勝手で、無能という烙印を捺されたにも拘らず、有能になりたがる。有能な人間は有能なままでありたがる。

同じところに必要以上の人間は住めぬのだ。

諦めよ。

定員オーバーになったエレベーターは、誰かが降りねば動作しない。

足を切る、首を切られる、そんな人間は必要なのだ。

ロケット空高く飛ぶには、多段式が望ましい

堀は何重にも重ね、石垣は何層にも積み上げ、敵を阻むのだ。

ただ無能な人が、最初に捨てられる、最初に踏破される、最初に埋められるだけに過ぎない。

脂肪を蓄えるのは、寒さと飢餓への備え。豊かなときに蓄えた脂肪が、何日もの寒さ、何日もの飢えから身を守ってくれる。

無能なものを踏み越えて、有能なものは進むのだ。

誇りに思え。お前は有能なものの足場となり、塹壕となり、明日への血肉となったのだ。

悲しむことはない。お前はよくやった。快く死ね

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