人里離れた山間僻地の宿舎には、慰安(いあん)のための女郎屋や芸妓置屋もあって、夜になると三味線の音も聞こえたため「三味屋敷」という地名が残っている。こうした井川金山の繁栄のため、家康公は大井川でも井川だけは橋を架けることが許されていた。これが刎橋(はねばし)と呼ばれ、官費での架橋は幕末まで許されていた。そのため、明治9年(1876)まで刎橋が存在したという。このため大井川に橋が架けられていなかったという定説は、井川では当てはまらない。残念ながら井川金山の遺跡は一部を残し、その多くが昭和32年の井川ダム建設によって水中に没した。
http://www.shizuoka-cvb.or.jp/oogosho400/study/13_16.htm#05