2010-03-07

http://anond.hatelabo.jp/20100307133147

興味深いエントリ

要するに、

「ええかげんでいいんや。大学では勉強なんてしなくていい。エリート勝手に育つもんだ」

を真に受けて、勉強をしないという選択をし、それをそれが失敗であったと嘆いているということだと思う。

この言葉が当てはまるのは、”地頭”がいい人間であって、秀才ではないのだ。

つまり、秀才勉強勉強を積んでのみエリートになりうるというのが元増田解釈だろう。

よって、誰にでも通用する訳でもない、耳心地のいい言葉を吹聴した森毅けしからんというのが結論だ。

文化人と名のついたコメンテーターの醜悪さは、今も昔も変わらないものだ。

元増田の論旨に納得いく点は多い。

ただ、

どのような人間師匠とするかが、いかに大切なことだと、今になってわかる。

この辺りから少し疑問が生じる。

もしも、森毅師匠としていたというのならば、この言葉を発する文脈をもっと正確に読み取れているのではないか?

どういう人に対して、何を背景としてこのことを言いたかったのか?

彼がいう”エリート”とはどういう人だったのか?

元増田は本当に、森毅師匠としていたのか?

おそらくしていないだろう。

自分癒してくれる言葉に飛びついただけに過ぎない。

大学では勉強なんてしなくていい。」

もう勉強なんて、したくないという心に響いたのはこの部分だけだ。

つまり私が言いたいのは、こういうことだ。

この言葉から逆算して、森毅師匠化しているのではないか。

そして、上手くいかなかった人生師匠のせいにしているのではないか。

おそらく師匠をもつとは大きな問題だ。

ついていきたくなる人。

圧倒的な能力を持つ人。

色々あるだろうが、自分と同じ万能ではない人間を心から尊敬しなくてはならない。

それが出来なかったことに、本当の苦しみがあるのだとおもう。

師匠捏造して溜飲を下げること。

もちろんそれがすべて悪いことではない。

ただ、そこから見えるストーリーがいいものになるとは到底思えないのだ。

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