一昨年曾祖母が亡くなったときに、私は高校生だったから制服を着て始終押し黙っていたのだけど、遺された人達でするお金の話とか、繋がりも分からない親戚が集まってお酒や煙草に興じるのとか、ややわざとらしい昔話とか、大人のすることは人の死の扱いとして相応しいような気がしたよ。
元増田がなにを見て「どうでもいいという感じ」と書いたのか分からないし「悲しい」という言葉は確かにあまりしっくりこないし実感も湧かず私は泣かなかったけど、どうでもよくはなかった。表に出す出さない/意識するしないの違いこそあれ、そこまで人を蔑ろにしたり、死を意識せずにいられたりするわけもなくない? それから「死んだ奴が自分に必要だから泣いている」というのをなにかレベルの低い悲しみのように扱うのも違うと思う。必要は関係の起源だもん。