昨年の暮れに、長年知り合いだった友人が山で亡くなった。
新年に入って、これまで彼と一緒に登ってきた山の写真を整理している。
ドライブついでのハイキングしか知らなかった2001年から2003年まで、
彼を山の会に誘い込んだ2004年、
お互いの登る山が気になって、それとなく牽制し合い始めた2005年、
怪我をして険しい山を目指すことを諦めて、自分が会から離れた2007年。
一緒に登ることはもうないと思っていたけど、彼から誘いを受けて出かけた2009年。
記憶の整理を進めていくほどに、まだ癒えていないわだかまりがにじみ出るようで、画面から目を背けようとしてしまう。
親しかった友人の死に接しても、取り乱すこともなくいられたのは
彼と距離を置き始めたあとだったからなのだろうか。
彼が何を目指そうとしていたかを、彼が亡くなるまで知らなくてよかったと思った。
彼が優れたパートナーと行動をともにしていたことを、彼が亡くなるまで知らなくてよかったと思った。
平穏な日々を送るために、自分は精気あふれる時間から遠ざかった。
それを分かつ機会が決定的だけど瑣末なものにすぎないことを知るほどに、
彼の死を、通りいっぺんに整理することができない自分がいることに気づく。