2009-12-24

http://anond.hatelabo.jp/20091224182114

乖離が大きい人は大きい人で他人に合わせるのにコストがかかりすぎるんで開き直って他人と合わせることなく生きている場合もある。

他人に合わせるよりも合わないことで起こる不具合を我慢する方がよっぽどコストが少なかったりするからだ。

不具合と言うのが「他人から変人という目で見られる」という程度のことであれば、気にしなければそれでいい。

そうすると、他人に合わせるコストと合わせないことで起こる不具合を我慢するコストとがちょうど等しくなるぐらいの中間の人が一番悩むのかもしれないが、それ以上乖離が大きい人は合わせない方を選択していると思われるので、中間の人の必要なコストが最大であるというのは正しくもあり間違ってもいる。

悩む分のコストもったいないだけであり、悩むのをやめてどちらかにすることでコストは最小化できるはず。

項目ごとにどちらにするかは自由だけれど、どんな項目であってもどちらかに決めれば楽になるよ。

記事への反応 -
  • 考え方や見た目などの生得的な性質が世間が求めるそれと乖離が少ない人ほど、他人に合わせることなく(というか、ほぼ素で生きても他人から避難を受けにくいだけで、結果だけ見れ...

    • 乖離が大きい人は大きい人で他人に合わせるのにコストがかかりすぎるんで開き直って他人と合わせることなく生きている場合もある。 他人に合わせるよりも合わないことで起こる不具...

      • 合わせる、合わせないを主体的に決める事ができる因子は、選択でなんとかなるかもしれない。実際自分もそうしている。生活の知恵だね。でも、精神的な苦痛を受け悩んだ末に割り切...

    • 納得するな。世間を攻撃しろ。俺に合わせない社会は狂っていると叫べ。何の苦痛もなく平和に生きていける連中に噛み付け。さもなくばはてサの資格はない。

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