子供のころ、多分幼稚園に通っていた4〜5歳くらいのころ、妙な妄想をすることがあった。
僕はまわりの人の話が分かる。まわりの人に話をしてそれが通じている。本を読んで内容が分かる。
しかし、僕が日本語と思って使っている言葉は、実は僕しか使えない変な言語なのだ。
まわりの人とコミュニケーションができるのは、僕の耳や口や目に翻訳機がついていて、
その翻訳機が、まわりの人が使っている「正しい」言葉と僕だけが使っている「変な」言葉とを
僕が知らないうちに翻訳しているからなのだ。
無論、「言語」とか「コミュニケーション」とか「翻訳機」とかいう言葉は知らなかったのだが、大体こういう内容の妄想だった。今までいろんな人にこの妄想の話をしてきたが、未だかつて一人も同じ妄想を経験したことのある人はいなかった。おそらくよほど変な子供だったのだろう。子供の頃はずいぶんと孤独感を感じることが多かったのだが、その原因の一つは、このような妄想が出てくる思考にあったのかも知れない。
しかし、大人になっておもうのだが、この妄想は意外と世の中を正しく捉えていたような気もする。人と話していて、いろいろな言葉の僕の意味づけの仕方というのが、まわりの人とはずいぶんとずれてるなあと思うことが多いのだ。(ちょっと今具体例が思いつかないのでもどかしいのだが。)「翻訳機」が無いことが分かっている分、人との会話では言葉の定義に相当注意する癖がついた。これ、まともな人と話すときにはウザがられるんだろうな。
ひょっとして、他の人はみんな「翻訳機」を持っていて、僕は「翻訳機」を持っていないとかいうことはないだろうな。新しい妄想である。