最低限文化的で健康な生存は無条件の権利。
もちろん政府がそれを保証する能力がなければその権利は画餅に帰す。
しかし、それは、全体として帳尻が合えばいいので、政策論の問題。
個別の個々人それぞれにつき、バーターである、つまり権利が義務と引き替えである、ということは当然のことではない。
ゼロサムの極限状態ででもない限り、人間らしく生存する権利を、労働の義務と引き替えのチケットのように考えるべきではない。
現行の日本国憲法ももちろんそう考えているが、成立の経緯が、そういう社会への経済的寄与を条件にしてしまうようなところがある、という話。
繰り返すけれども、最低限の人間らしくある権利は、条件抜きでなければならない。(もちろん、他者の同じ権利への積極的で意図的な攻撃はのぞく)
それをいかに成り立たせるかを考えるのは国家の義務。
全体として帳尻を合わせることが求められているだけ。
そして、そうであるかぎり、所得の再配分という形での、福祉に関する、個人単位での出と入りの不均衡は必然。
それが、社会的相互扶助というもので、それは経済学的に見れば、広い意味での、保険制度。
いいかえると、明文化されなくても当然負う国民の義務というのは、生存権の保証を破綻させないように「能力と立場に応じて」貢献する、ということであって、
個別の権利それぞれについて、それぞれの義務が、しかも条件として課される、というものではない、ということ。
だって、立場や状況や身体的・経済的能力において貢献できない場合、というのはあるものだし、それぞれについて、いちいち条件を満たしているかなんて
公平に判断することなど不可能だし、またそうあるべきでもない。そこで著しい不公平や制度の破綻を回避するのは、政策責任者の問題。
その意味では、通常の保険みたいに、掛け金と受け取りの間にすっきりとした一対一関係があるとはいえない。逆にそうだから、民間保険ではなく政府が担当している。