多数派は、ぶっちゃけ、少数派がいなくても生きていけるし、対話をしなくても不利益はない。
が、少数派は常に、多数派に声をあげて、対話の機会を求めなければいけない。
だから、そういう意味で対話の拒否である「シカト」は多数派が少数派に対しての持つ一番有力な武器。
対話を希望しているようなことを言い、発言を繰り返しながら、一部の人間の発言に関して、確信的に無視すると言うのは一番卑劣。
それが卑劣であることを相手に直接訴えても、もうシカトされてるから、言葉が届かず、対話が成り立たない。
その閉じた場の中にいたら、その卑劣さが問題視されることはないから。
問題を、閉じた場の外に引っ張りだして、そのシカト=「対話の拒否」自体の持つ暴力性や問題点を認識することが必要ななんだよね。
だから教室でいうと、教室の中でのシカトは当事者同士の話し合いとか、自浄作用では絶対になくならなくて。
ある意味ちくりじゃないけど「せんせー!」とか、当事者の輪以外の価値判断とか、しきりみたいのが必要になってくる。
大人の世界でも一緒。議論の場とかでそれを感じる。
ある場において、多数派にシカト=「対話を拒否」された少数派は、その場を越えた、外部の力に助けを求めることになる。