第三者が言えることなんて、結局どうでもいい一般論なんだけどさ。
誰だって、自分が死ぬ状況を正確に予想なんてできないよね。
事故かも知れない、病気かも知れない、老衰かも知れない。誰かに殺されるのかも知れない。
その中のどれをよしとするかは価値観によって様々だけど、自分の意志では選べないって意味では、圧倒的に平等なんだよね。
死の機会(の到来)っていうのは。
私は、そこに自殺も含めていいんだと思う。
自殺っていうのは、そのままの意味では自分で自分を殺すことだけど、そんなことを人間はそうそうやれるもんじゃないんだ。
よく言われることだけど、本当に消耗してしまった人は、自殺することなんてできないんだ。
それくらいエネルギーが必要な行為なんだ。
自分を終わらせるためにそれだけのエネルギーを出さざるを得ないくらい、何らかの理由で追い込まれていたんだとしたら、それはもう事故に逢うとか、病気にかかるとか、気違いに刺されるっていうようなことと等しいくらいの抗えない不幸なんだよね。
止めることなんて誰にもできなかったんだよ。
周りが「あの時、ああすれば」と思うのは当然だし、あえて変な言葉を使えば、それが遺された人間の権利であり義務なんだよね。
そして、そのことと、亡くなった当人に迫っていた色々な事情は、多分、ほとんど関係ない。
だからさ、増田は、亡くなった人を悼みながら、それでも自分は生きていかなきゃならないんだよ。
というか、否が応にも、そうしていくことになるんだよ。
知り合いを亡くすというのは、そういうことなんだよね。
それだけ大きいことだし、同時に、それだけのことでしかないんだよね。
涙が出てこない自分が憎い もっと一緒に遊びたかった もっと一緒に語りたかった 飯食いに行きたかった あー・・・ 前日に普通に遊んでて、笑顔で別れて、次の日の早朝はないだろーが...
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あれ なんだかぼくもかなしい