2009-01-06

幸せになる方法』の誤謬

1a:不幸な人『ええ、そうよ。幸せになる方法とか知りたいわ。いつもいつも幸せになりたくて、いっしょけんめい色々考えてるの。』

1b幸福な人『え、そんなの考えたこともないなあ。え、私? うーん、幸せだと思う。たぶんね。』

これをたとえば【アルコール依存症】に置き換えてみるとどうなるだろう。

2a:依存症患者『ええ、アルコール無しでやっていく方法とか知りたいです。いつもアルコール抜きで生きる方法を考えています。』

2b:非患者『え、考えたことないなあ。 私? うーん、依存症ではないと思う。たぶんね。』

別に1と2を並べて「不幸は依存症のごとし」という話をしたいわけではない。言いたいのは、「幸福になる方法について考える」というときの「考える」意味内容がaとbとでズレているのではないかということ。2bの人の「考えたことない」は「アルコール抜きで生きる方法について考えたことがない」ではなく「(依存症になるなんて)考えたことない」なのではないか。

それは1についても言える。つまり1bは「幸せになる方法について考えたことがない」ではなく「(不幸になるなんて)考えたことない」なのではないだろうか。

では「幸福な人」は幸福になるために考えていないのだろうか?「依存症でない人」は依存症にならないために考えてはいないのだろうか?と言えばおそらくNOだ。彼らは多分どちらも「クヨクヨ考え込まない・人の言うことを悪く取らない」とか「限度を越えて呑まない・依存しかけていると思ったら別な気晴らしを見つける」といった程度のことは普通に実践している。つまり幸福になるためのハウツー依存症にならないためのハウツーを知り、実践しているのである。それは普通に生きていて身に付く「常識」に類することだからだ。

では「不幸な人」や「依存症になる人」はそれを知らないのか? 彼らはそんなに常識知らずでロクな教育を受けなかったバカなのだろうか? といえばたぶんちがう。ここに最大の誤謬がある。

http://anond.hatelabo.jp/20090105235730

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