2008-12-22

コミュニケーションとは意志である、ということ

http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081221/1229832078

僕なりにこのエントリを一文要約すると、

「伝達方法に答えはないんだから、本質的なのは方法じゃなくて伝達だ(技能じゃなくて意志だ)」

ということだと思う。

そりゃコミュニケーション技術能力はある。

動けるとか、声が出せるとか、言葉が喋れるとか、相手と同じ言語が使えるとか、敬語が使えるとか、多様な表現が使えるとか……。

相手の言動を考慮に入れる段階を踏まえると、もっと認識レベルでの技能も必要になってくるだろう。

だから、そういう意味で考えればコミュニケーション能力はあるし、幻想ではない。

でもid:aurelianoが批判している「コミュ能力」ってのは、そういう本来的な能力とは異なるのに「能力」と呼ばれるもののこと。

「この人(あるいは自分)はコミュニケーションが下手だな…」と思うと、その人の「コミュ能力」が低くなるような「能力」。

もちろんそんな「能力」は能力でなくて、内外的な評価だ。

素朴に「自分コミュニケーションが下手だ」とか思ってれば良いのに、自称非コミュは「能力」として考える。

そこには「自分は生まれながらコミュニケーションに向いてない存在だ」という感覚があるのか知らない。

しかし「コミュニケーションに向いてない存在」とは、「方法を有していない存在」か、「意志がない存在」か、どちらだろうか?

たとえば、生まれて初めてのコミュニケーションは必ず一方的な意志の押し付けである。

生まれながら何らかの方法を持っている者などいない。

意志はというと、こちらは生まれながら持っているものだ。

コミュニケーションは意志である」というのは、少なくともこういうことだと思う。

ところで、「非コミュ=そのことを気にしてる」みたいなことって、何でデフォルトなのかなと疑問に思う。

コミュニケーション下手だから基本とりたくない!けど上手くなりたい訳でもない!みたいな人とか、いないの?

実存とか不条理とか考えてる人は「非コミュ」なの?

誰か教えてください。

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