2008-12-02

誰かを愛すってことは誰かを愛さないことだ

例えばの話。

家で猫を飼っている。一人暮らしに猫一匹の充たされた暮らし。

その猫は世界で一番と言っても過言でないほど可愛い。

毎日当たり前にご飯の世話やトイレの世話をし、たまには首環を変えてやり、

誕生日には猫缶をプレゼント、日なたでぬくぬくしていようものなら毛繕いを手伝ったり寄り添って眠ったりする。

窓の外を見て度々鳴いたりはするので拘束される不満はあるのだろうけれど、

飼い猫としてはこれ以上出来ることは無いほど愛しているし、まあ、それなりに過ごしているよう見える(何を思うかは推し量る他無い)

で。

雨の日、帰り道を急ぐ中、酷く濡れた子猫を見つけた。

よく見れば鼻水をたらしてくしゃみをしている。

捨てられてからしばらくたっている様で、放置していれば野垂れ死にそうなようにも見える。

車道から離れた路地なので誰かが拾うのを待つことも出来るが、歩み寄ってはこないその子猫

なんだかじっとこちらを見ている、気がする。

しかしうちにはすでに飼っている猫が居ることを思い出す。

それに加えてその唯一の同居人テリトリー意識が強いことも。

子猫が捨てられた経緯はさっぱり分からない状況。子猫はしゃべらないし、あろうことか鳴きもしない。

どうしてこの子猫はこんな状況になるまでこんなだったんだ。環境の所為だと言えば仕方ないのかもしれない。

寒さを避けるように一瞬抱き上げ連れ帰るものの、結局は家の前で面倒を見るような格好になってしまって、

飼えもしないのに連れ帰る自分の傲慢さと、子猫放置した誰かに腹が立つ。

これ以上何か出来る手だては思いつかない。

愛は有限だ。

時に残酷な選択を経てやっとそれに辿りつく。

安易な同情が愛に結ぶかどうかは個人の裁量なのだろうけど、そこから出発する関係など大概碌なものでないのは分かりきっていること。

こんなことをうだうだと考えるくらいなら、最初から猫など飼わなければよかったのだ。と気づくまでに7年もかかってしまった。

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