僕と別の増田からすると、「論証のお作法という基本的なルールに則っていない人は門前払い」なの。元増田の言う言語学はどんなものなのかなあ。
とにかく見られる部分は少数であろうがあったわけで、そして俺にはそれで十分だったんだよ。
元増田のいう「十分」は引用箇所→(引用箇所に対する)批判の導出過程においてだけ意味を持つ。「知識」も導出に必要なだけ。だけど文脈→→引用の再現性はどうかといえば不十分で、補助線として主題の把握などが必要だがそ、それも循環するし。よってかなり論証過程として不十分。
たぶん一部の引用部の超トンデモさ加減から逆算したいのだろうけど。逆に枝葉末節への批判ばかりだね、といった種の批判もありうる。ただこれでも「読まなくても分かる」と矛盾が出てくるのだが。
引用→批判における推論過程が数偏りにおいて杜撰と言われたので、誤りがないといえる生の批判の正しさを強調する一方で、同様に批判される推論過程、水村本の主題がダメ→水村本はダメ本、批判の集合→水村本全体的にダメ本傾向、という種の批判を回避したいようだ。
つまり、数偏りのある引用から推定した部分をすてて、個別の引用から直接的に導かれる批判だけを残して、批判の個別の強さに訴えるわけだ。元々そうだと言うのかもしれないけど。
しかし、「読まなくてもわかる」と数度豪語している。これは結果的にではない。となると主題がつかめると主張しているのだが、ここで矛盾が生じる。
修辞でないとすると、主題の推定は数少ない引用に依存→少ないと認めたので放棄→矛盾=主題はわからないので、今のところ瑣末な批判の集合(どれかが主題をヒット)。修辞であるであるとすると、(一部でこんな初歩的な間違いをする)から読まなくてわかるダメ本。ダメ本肯定なので矛盾。
つまり、印象論否定「読まなくてもわかる」ダメ本否定はひっこめるしかない。
ここまで言わなくても、「実際、読まなくてもわかるレベルだったじゃないか、あの本は。門前払いレベルだってことが言いたかったんだよ。」で十分なのだけど。
元増田のいう「十分」は引用箇所→(引用箇所に対する)批判の導出過程においてだけ意味を持つ。 その通り。そしてそれで十分だからそれで終了とした。以上。 たぶん一部の引用...