時折、魂の在処を考える。
魂の定義=人を人たらしめるもの。もしも魂が実在しなければ人間は、ただ生きて、ただ死ぬだけの肉の塊に過ぎなくなる。それを信じたくないから人は魂という目に見えないものを信じようとする。
魂は脳に宿るのか、それとも心臓に宿るのか。それとも、それ以外か。そして仮に魂が抜け落ちてしまったものはどうなるのか。そうなれば、まるでゾンビだ。動く死体。おれはいまだに弟が生きているのか、それとも動く死体なのか判らずにいる。
弟=交通事故の後遺症によって脳萎縮を起こし、それ以外の部分は健全だけれども、脳活動を著しく損なわれてしまった。その言動に以前の弟の面影はない。それは弟なのか。それとも、それは弟ではなくなったのか。
魂の在処は、どこだ。脳か。心臓か。それ以外か。そして仮に魂が抜け落ちていたら、それはなんになるんだ。おれはかれをなんと呼べばいい。まるで弟以外の別のだれか。それとも弟のかたちをした別のなにか。いつまでたっても判らない。判らない。判らない。
魂の存在を、どうやって証明する。その人を人たらしめる要素は何だ。その答えは誰にも分からない。我思う故に我在り。自分自身の存在の証明のみが人間の限界だ。そのうえさらに他人の魂の証明など、とても無理な話だ。
科学は魂を証明しない。哲学は魂を証明できない。宗教は魂を妄信するのみで証明しようとしない。なにもだれもかれも魂を証明しない/できない/しようとしない/してくれやしない。これはおれの問題だ。そして答えの出ない問題だ。
なにをもって弟を弟と証明するか。弟は、記憶は、ある。けれども違和感=弟の言動=以前とは異なる言動。言動/思考/感情を弟と定義するのか。けれども、そうしたら弟は、もはや弟ではないことになってしまう。それは出したくない解答だ。
魂は目に見えず、その証明は、不可能/目の前の人物は何者なのか証明できない。だからおれは実家に帰って弟と出会う度に強烈な恐怖に駆られる。もうすぐ年末=実家に帰らなくてはいけない。おれは問題と対峙しなければいけない。
魂は脳に宿るのか、それとも心臓に宿るのか。それとも、それ以外か。それとも魂など実在しないのか。であれば人を人たらしめるものは何だ。おれたちはなんのために生きているんだ。なんのために死んでいくんだ。
答えは出ないことは分かり切っているのに問われ続ける。問われ続ける。問われ続ける。たとえ、いつか弟が死んでも、その記憶に問われ続けるだろう。いつになったらおれは解放されるのだろうか。この証明問題に。