いつも思うのは、高校国語では、「才能がなくても、国語はいずれ必要になる」と教えるべきだと思う。
自分は、高校の時の勉強合宿で、「よし、この問題を一日かけてといてやるぞ」と思って解いたある演習問題が答えとあわず、先生に相談に行ったら、「どこか読み間違いしてるんだろ」といわれて、見向きもされずに突っ返された。いや、何度も見直しをしたのだが・・・。
国語とは、そういうものなのか。いや、別に国語は好きだったのだが、才能がないとやっても無駄なんだな、と思って、全くやらなくなってしまった。
今、めっちゃ後悔している。
結局、「論文にせよ,新聞記事にせよ。ある事柄を理解するには、文章を読み取る能力が必要になることがある」ものなのだ。
そして,ブログにせよ,論文執筆にせよ。他者に理解してもらうにはどのような文章を書けばいいのか理解する必要があるのだ。
なぜ、高校の時は、点数が高いとか低いとか、そういう非本質的なところに拘るのだろう。
「国語の才能がない」、と思って、高校国語で挫折している人間が何人いることか・・・
高校国語は、国語の才能なんて求めてないんだよ。「才能がなくても、どうせいつか必要になる」から、高校の時に国語を教えているだけだ。
それを,国語の才能があるものを見出すかのような教え方をするから、「才能がない」と思って挫折してしまう人が多い。
大変もったいない、と思う。
それを、国語の才能があるものを見出すかのような教え方をするから、「才能がない」と思って挫折してしまう人が多い。 高校に限らずそんな教え方されたことないな。必要だからや...