ときおり、おもいっきり悲劇のヒロインぶって涙したいときがある。
さっきもそうだった。悲劇のヒロインの話を練りこみ頭の中で想像し、一人涙した。すっきりした。
問題は、なんでこんなオナニーをしたいのか分からんってことだ。
自分で悲しい物語を作り上げて泣いておいてなんだが、悲劇のヒロインぶって何が楽しいのか自分でも分からない。
でもしちゃうんだよな。してるときはなんか夢中なんだけど、し終わると「時間が勿体無かった気がする」とかやけに冷静になるところも実にオナニー。完全オナニーだよ。
悲劇のヒロインぶるのってなんでこんな気持ちいいんだろう。一種の爽快感すら覚える。
最初のオナニーは、悲劇ヒロインぶる→でもハッピーエンド!という感じの空想だったんだけど最近じゃもう悲劇の山場で絶頂にいたってしまって(精神的に)、ハッピーエンドまで妄想する気が潰えてしまうことがおおい。「なんかハッピーエンドまで妄想すんのめんどくせえな……もう一度(精神的に)イったしな」的な感じだ。何?何を求めてんの私は?
我ながら意味が分からない。
しかし、「悲劇のヒロインぶるんじゃねーよ!」って言葉があるけど、辛いときって寧ろ積極的にそういう、劇場の中の人ぶったほうが精神的安定を求める為には合理的な気がする。「酔う」と人間結構なんでもできるもんね。不運な事が何度も怒った時とかも、脳内でギャグマンガ風に仕立て上げてその中のキャラクターにでもなった気分でいるとなんか許せる。笑える。現実の「物語」に酔うことによって、辛さを受け入れられるようにしているのならば、悲劇のヒロインぶるのって悪くないんじゃないかと思う。ライフハック。
わざわざそんな、「悲劇のヒロインぶらず、物事をあるがままにみつめよ…必要以上に悲しむことも、また必要以上に意地はることもなく、ものごとをあるがままに見つめよ」(要はそういうことだよな)っちゅー坊さんみたいなきっついこと要求せんでもさ。いいんちゃう?ヒロインぶるのも。
と思ったけれど、悲劇のヒロインぶって「拗ね」に入るようなのがよくないといわれてるのかな。