現時点で既にそういう層も差別はされてるんじゃないかなー。
直接いじめに加担もせず、いじめられている側を助けもせず、いじめる奴もいじめられる奴も見下している人間って普通に居ると思うんだ。実際に手を下さないから罪悪感はもちろんないし、事が露見したときに責任を問われるようなリスクは取らない。つきっぱなしのTVの過激なバラエティ番組を見ている感覚でそういう場を受け入れる。そういう人間からは、いじめっ子も(いじめられっ子と同じように)「バカだなあ」って目で見られていると思うよ。
そういういじめが存在することを消極的に容認して、双方から距離を置く態度ってありがちじゃないかしら。傍観者にとっては、いじめている奴もいじめられている奴も「双方等しく」可哀想な子なのであって、どちらも肩入れして直接何かをしてやろうとするという対象ではない…という。
そこまでは行かなくとも、そのしょうもない行為を見ながら心を痛めたり、あるいは楽しんだりしながら、TVの向こうの出来事のように消化することで、一段上の位置に身を置いているように見える人も多い。何か手立てを取ろうとすれば、もう番組の視聴者じゃなくて出演者になってしまう…そうなれば自分も「可哀想な子」の仲間入りだ、と思っているみたいに。
そう考えると「可哀想な子」という視点がいじめの抑止に繋がるとは思えない。むしろ、いじめへの傍観者的態度を助長するだけなんじゃないかな?
…もちろんだからって良い考えがあるわけじゃないんだけどさ。どうすりゃいいんだろうね。
いじめる子が野放しでやりたい放題してる事と、傍観者が逃避的で何もしようとしない事はまた別の問題じゃね?いじめる子がいなくなればいじめはなくなるし、傍観者もいなくなるわけ...