2008-07-07

空へ

中高時代の修学旅行は寝台列車での移動だった。私の学校は「私立のくせに修学旅行がしょぼい」と評判で、担任教師が「修学旅行は寝台列車で…」と口にした途端に「ええーっ」と生徒たちの間から不満の声があがる程だった。その時、普段は優しい先生が「我が校では飛行機を使いません」といやにきっぱりと言った理由を知ったのは、少し後のことだ。

校門から下足室までの小さな木立の中に、「空へ」と書かれた石碑があることは全校生徒が知っていた。トランク程の大きさの石で、鈍い斑色の表面をいつも輝かせている。けれども、その石碑がなんのものであるのかは、ほとんどの生徒が知らなかっただろう。

だから卒業間際のホームルームで、担任教師から知らされた事実は、ひどく私たちを驚かせた。それはあの1985年に起きた日航機墜落事故で犠牲になった3人の先生の慰霊碑なのだった。事故当時の私たちはまだ幼稚園に通っていた。テレビの向こう側、どこか遠いもののように思っていた凄惨な事故が、ひたりと真後ろから近づいてきたような気がした。私立では教師の移動がない。あの事故がなければ、間違いなく私たちはその3人の先生に教わることになっていたはずだ。先生がにこにこと笑いながら子供の話をし続け、私たちが「授業やろうよ」なんて茶々を入れる。そんなこともあったかもしれないのだ。

その3人の先生は修学旅行の下見の帰りだったという。そのうち1人の先生に、赤ちゃんが生まれて、予定を1日繰り上げて事故機に乗り合わせたのだと聞かされた。喜びの1日のすぐ後に、こんな大きな悲しみがやってくると、誰が予想していただろうか。3人の先生のご家族、中でも出産直後の先生の奥様が受けた衝撃はとても想像出来るものではない。奥様はご自分を責めていないだろうか。そして、その赤ちゃんは――。

卒業して10年が過ぎた。毎朝、校門を駆け抜ける全ての生徒を、あの石碑は今も特等席で眺めている。喪が明けたのだろうか、時代のせいだろうか。今、私の後輩たちは自由に空を飛んでいるようだ。同窓会報で、インターネットで、集団海外留学や修学旅行の報告を見るにつけ、恩師になったかもしれない顔も知らぬ先生を思い、少しの寂しさを感じている。

  • 俺は性格が悪いので 3人くらいは交通事故で死んだ奴もいるんだろうなとつぶやいてみる

  • 「歴史」を絵空事じゃなくて、身近な現実の出来事として感じるってのは、いい勉強になるな。

    • 日航機墜落事故を「歴史」と言われてしまうとジェネレーションギャップを感じる。 元増田も高校卒業後10年=28歳だから、ぎりぎり記憶にある世代かな。

    • 「歴史」って言ったのは他意はない。気分を害したなら謝るわ。ごめん。 俺もほぼ同い年だけど、見事に記憶にないんだ(苦笑)。

      • 当時5歳なら無理ないかもしれないね。 そんなあなたに、少し身近に感じられることを。 この事故では4人の生存者がいたが、その一人が当時8歳、今31歳。 帰省ラッシュで、5歳前後もかな...

        • 1985年夏か。東北旅行中に事故を知ったよ。 宿でみんなテレビの前にかじりついていた。 その数日後、山形県の某駅の待合室で高校野球の中継を見ていたら、 PL学園が二十何点を取っ...

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