2008-03-02

http://anond.hatelabo.jp/20080302000725

被害者加害者、そして第三者、というわけ方をしてみる。

被害者によっては、そして事件によっては、広く世間に知らしめたい、という被害者もいる。が、事件が与えた心の傷が深くてそっとしておいてほしい、という被害者もいる。

加害者にとっては、有罪だという前提で、罪を自覚し、繰り返さないという意味がある。反面社会復帰に障害になるということもあるかもしれない。

問題は第三者だが、どう関わってくるのか、ということが問題になってくる。今回のような事件の場合、セックスにしか興味がない野次馬の興味を満たすため、売り上げを上げるため、ということもあるのだろうけれど、それは普遍的な価値を持たない、一部の人間の私的な利益にしかならない。そういうものが価値となりうるのかと。

たとえば基地問題だったり、日米の関係だったりに深く関わる可能性があるのだったら普遍的な価値を持つのかもしれない。まあそれは日本の側だけで、アメリカにはないかもしれないけれど。

今思いつくのはそういうところだけれど、報道は基本的に第三者のためにあるような気がするし、普遍的な価値のためにしているような気がするし、またそうであるべきなんじゃないかと思う。そういうもののためなら報道する価値はあるのかもしれない。何らかに役立つ可能性があるのであれば。一部の人間の下世話な興味のためにならすべきではないと思う。が、普遍的な価値があると思われても、今回のように当事者感情を傷つける可能性があるかも、という場合、それをどうするか、という境界線に立たされると思うのだけど。

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