2008-02-17

kuma

 隣で寝ている熊を起こす。

 ゆっくり揺する。動じない。少し、毛が撥ねた。力強く揺すっても、なかなか起きない。動じない。

 こいつは大変困った奴である。私の部屋に転がり込んで早半年が過ぎた。特に何をするでもない。日がな一日ゴロゴロ。もう野生に戻る気は全く無いのだろう。今日も近くのローソンおにぎり屋を大量に買って食べたようだ。散乱する”鮭”のシールが、何だか物悲しい。それでいいのか。本当に。

 6畳の部屋に熊は大変邪魔である。奴が横になると座る場所が無くなるので、必然的にベッドに行かざるを得ない。仕方なくベッドに座り込んで、趣味プラモデル作りに励む。最近、私がハマっている城作り。松山城

 しかし、奴にやられた。熊という生き物は、寝ぼけながらも左手は常に何かを狙っているのである。

「それは蜂蜜じゃない……」

 私のか細い声は、届かない。グチャグチャになった松山城を片付ける気力も無く、そのまま寝床につく。

 朝、目が覚めると、私の枕元に無数のプラスチックの破片が飛び散っていた。どうやら、私が眠った後も奴は暴れていたようだ。奴の左手が壁の高い所にピッタリと貼りついている。今度は接着剤を蜂蜜と間違えたのだろう。鼾をかきながら手を挙げる熊。世界中の担任は、誰も君なんか当てやしない。当てられるのは、猟師の銃口ぐらいだ。脱ぎ捨ててあった服を着直して、私はバイトへ向かう。太陽の光が眩し過ぎて、なんだか心が少し萎えてしまった。

 新しい三色パンを試食するバイトに疲れ果てた私は、夜更けになって、ようやく自分の部屋に辿り着く。口の中には、まだカルボナーラの味が残っていた。ドアを開ける。奴は当然のように寝ていた。伸び過ぎた爪を丁寧にプラモデル塗料で赤く染めている。どこかに勤める気なのだろうか。お水?川じゃない方の?まさか指名を貰える自信でも。同伴出勤なんかしようものなら、真っ先に麻酔銃で撃たれてしまうが。

 塗料の臭いが充満しているせいか、頭がクラクラしてきた。やらなければいけないことは山積しているのだけど、こんな状態では何もする気が起きない。朦朧とした意識の中で、私はベッドに倒れ込み、少しずつ眠りの世界へ歩いて行った。

 次の日、予定より早く新しい三色パンが食べ終わったので、珍しく夕方頃に自分の部屋に戻る。今日クレソンだったので、口の中は少し苦い。

 ドアを開けると半分に割られた竹が部屋に散乱していた。一本は壁を突き破って、隣の部屋まで突き抜けていた。いつからここにパンダが。お友達か。しかし、部屋を見回しても、いつもの熊しかいない。よく見てみると、竹はかなり計算されて組まれていた。台所の蛇口から繋がれたホースが、勢い良く水を運んでいる。

 奴は”流しそうめん”を素手でやっていたのだ。流れてくる素麺を鮭に見立てているのだろう。真剣な目つきで、必要以上の力で、素麺を真上にしゃくり上げる。飛び散る水。引き千切れる素麺。水浸しの部屋。アパートに響く雄叫び。私はゆっくりとドアを閉め、近いうちに来るであろう、奴との別れを想った。

 その夜、生まれて初めて酒で記憶を失った。路上で目を覚ました私を取り囲むように、清掃員によるゴミの収集が行われていた。

「ご苦労様です……」

 私の声が、虚しく収集車のなかに消えていく。

 部屋に戻ると、そこに奴の姿は無かった。

 私が脱ぎ捨ててあった服はちゃんと洗濯され、ご丁寧にアイロンまで掛けてあった。乱雑に置いてあった物は整理整頓。テーブルの上には花が飾られ、台所には鍋にカレーまで作ってあった。

 キチンと片付けられた部屋。何もない部屋。私は一抹の寂しさ覚えた。

「こんなに広かったけ?」

 小さく息を吸う。肺に空気が入る。小さく。もう獣の臭いはしない。

 物凄く寂しいけど、やがて、この寂しさに私は慣れてしまうのだろう。人間という生き物は、そういうものである。

 淡い期待を込めて買った婚約用の首輪を、静かにテーブルの上に置く。

 なんだか泣けた。そして、笑えた。

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