ってよく言うけど、なんであんなに酷い言葉が吐けるのか僕には分からない。
辛くて、辛くて、もう死んでしまいたい、という人に、どうして更に「残される側の他人の気持ち」を被せるのか。もう死んでしまいたいという、いまにもプツンと糸が切れてしまいそうな人に、どうして更に重荷を乗せることができるのか。
この言葉はもしかしたら正論なのかもしれないし正しいのかもしれないし、もしかしたらそうじゃないのかもしれないしそれはわからないけれど、なんにせよ僕は正論を言えば良いって訳じゃないと思うし死のうとしている人にとっては尚更だと思う。
どうして、よりによって、死にたい人にそれを言う。そんな重荷を乗せてしまうんだ。
余りに酷い仕打ちに僕は目を覆いたくなる。
もう、数々の重荷を背負い、潰れて死んでしまいそうなロバに、「お前が死んだらこの荷物どうするんだ。誰が運ぶんだ」といって更に重荷を乗せていくような行為をなぜ平気でできるのか、なぜ「なんとなくよさげな言葉」みたいにして扱われてるのか僕には分からない。ちゃんと整理した後で死ぬならいいけど、って言ってる人がいたけどそれって、「お前この荷物砂漠渡って向こうの街まで運んで来いよ。運びきったら死んでいいよ、もう用はないから」って言ってるのと同じだろう。
どうして元気な側が、死んでしまいそうな人間に更なる重荷をかけるのか。
皆、死にかけた人を見ても尚少しばかりの自分にかかる火の粉を気にするの?
残される側の気持ちって何?
大体、残された側が悲しんだり怒ったりしたとして、その責任は死んだ人にあるの?それが分からない。
僕は友達が死んだら悲しいけれど、その悲しさを友達のせいにはしないと思うししたくない。
僕が悲しむのはあくまで、僕が友達を好きだったから、それを失った悲しさであって、それはあくまで僕の感情なんだ。僕が勝手に悲しんでいるだけだから悲しんでいる責任も僕にある。感情って誰かのせいにするもの?それって自分の責任じゃないのかな。だって誰かのせいにしたらキリがないよ。僕がそんな気はなくても、僕が歩くだけでいちいち癇に障るような人が、もしかしたら実在するかもしれない。僕がこうしてエントリを書くだけで、泣き崩れるほど悲しい人がいるのかもしれない。でも、だから僕は歩いてはいけない?だから僕はエントリを書いちゃいけないの?もしそうだというのなら、僕たちは何一つすることが出来なくなる。そんなに他人のせいにばっかしてないで、自分の感情くらい、自分で責任持つべきなんじゃないかな。「お前がいちいち歩くせいで、俺は気が立ってしかたがない。お前が歩く事でイラつく気持ちを考えろ」なんていわれても僕は困るよ。そんなこといったら、僕は、「僕は歩くごとに気が立つあなたの存在がイラつく。そんな僕の気持ちも考えろ」っていいたくなる。死ぬ人だって、それこそ、「死にたいほど辛いのに、残される側の気持ちを押し付けられる僕の気持ちも考えろ」っていいたいんじゃないの?
自分の感情、他人のせいにして、他人に押し付けちゃだめだよ。
そんな子供みたいなことして、重荷をかけて、死ぬ人を更に苦しめるような事はもうやめようよ……