ないことの証明とあることの証明って悪魔の証明って言葉で頻繁に言われるほどその難度において非対称なこともない気がする。
数学とか、ないことの証明の方が容易な場合って結構あった気がするし。
元増田は従軍慰安婦問題についての言及なんだろうと勝手に解釈して反応すると、歴史的な事象に限っていえば、歴史的にある出来事があるというのはある出来事がないというのと同じかそれ以上に難しいと思うよ?
歴史学の場合、たぶん、出来事については「蓋然性が高い」とかそういうレベルでしか証明はできないんじゃないかな。時間の経過はどうしても証拠の滅失や損傷を生むし、完璧に存在を証明しようとしても物理的に不可能な場合が多くなる。かと言って、証拠が完璧にそろわないものは全部存在しないという方針で行くわけには行かないだろうしさ。だから、僕らが市井のレベルで何か歴史的な判断を示したい場合は
1,現在の学会において蓋然性が高いとされている仮説を提示する。
2.従来の仮説とは異なる自分が主張したい仮説を定義し、提示する。
3.従来の仮説の根拠であるとされていた従来の証拠の証拠能力を低下させる、ないしは覆すような証拠を示す。さらに必要に応じて2で示した自身の仮説の根拠となる証拠を提示する。
みたいなプロセスを経て主張していくことになるんだと思う。
であると、あんまり安易に「あると主張する側が証拠を示すんだー!それ以外の手続きは悪魔の証明だー!!」って主張するのはちょっと非現実的というか、物事を単純化しすぎじゃないかという気がするのだが、どうだろう?
「あった」と称する側が提示するのが常識
ないことの証明とあることの証明って悪魔の証明って言葉で頻繁に言われるほどその難度において非対称なこともない気がする。 数学とか、ないことの証明の方が容易な場合って結構あ...